2022年3月6日
『勝たなくても良い、信仰の勝利の生き方』
第Ⅱコリント12:9
(起) 第Ⅱコリント12章9節の御言葉から、「私は、キリストの力が私に宿るように、むしろ、喜んで
自分の弱さを誇ります」と言った、パウロの全能主に信頼して一途に生きて行った生き方を学び、
「どこまでも全能主を信頼して行く信仰の在り方」を学んで行きたいと思います。
(承)さて、パウロはこの御言葉の中で「自分の弱さを誇る」と言っていますが、一般的に多くの
人々は、自分ではどうすることも出来ない「弱さ」の中で、悩んでいます。例えば、私たちは普段、自分
の内側から出てくる思いに従って行動をしますが、その内側から出てくる思いが、いつも正しいとは
限りません。何か、自分で自分を治め切れないものがあるからです。それは自分の心の奥底に潜む
魔物の心が邪魔しているのです。それを正しくコントロールして行けばいいのですが、弱さを抱える
私たちは、いつも魔物によって「弱い自分」を思い知らされ、それがストレスになって平安を失って
います。これこそ「私たちの弱さ」です。しかし、クリスチャンになると、そのような弱さから解放
され、「強い人」になれると期待します。なぜなら、この御言葉の中に「弱い自分でも、キリストの
力が宿るのだ」と書いてあるからです。ところが、はっきり言って、それは幻想です。たとえキリスト
を信じたとしても、私たちが天に挙げられるまで、生まれながらの肉の弱さがなくなり、心の内に潜む
魔物が取り去られる事はありません。ですから、この地上では、クリスチャンが自分に頼って、良い
人間や強い人間になることは出来ません。これは、真理の一面です。
(転)ところが、クリスチャンには、本来の救いのもう一面があります。それは弱い自分には頼らず、
キリストに全面的に信頼して、キリストによって成して頂く、新しい生き方です。それは、「弱い
自分」でも、キリストの力で活きて行ける新しい生き方があるということです。それは決して、自分
の力で思い通りに活きる「強い自分」になるということではありません。この新しい生き方は、一言で
言うと「人に勝たなくていい」という生き方です。なぜなら、クリスチャンは人に対して生きるので
はなく、全能主に対して生きて行く者だからです。一般的に、古い自分は人に対して生きているため、
何とか「人に勝てる人間に成りたい」と思い、「勝てる人間に成ること」を目指しています。ところが、
クリスチャンにされた後でも、なお未信者時代に持っていた願望を抱き続け「強い人間になりたい」
という思いを、キリストを利用して成就しようと思い続けています。これは、間違っています。
なぜなら、生まれながらの人間が持つ願望は、自分の力に頼るからです。しかも、たとえクリスチャン
に成ったからといって、魔物を抱えた人間が突然「強い人間」に変えられると考えるのは、有り得ない
ことです。なぜなら、キリストの救いはアオリスト形の救いであり、弱い自分が自動的に強い人間に
なる救いではないからです。その証拠に、いつまで経っても弱い自分の性質は変わっていません。
このように私たちは、自分で自分を救えない、お手上げの人間です。この事実は、キリストを信じても
変わりません。私たちは、こういう罪人の姿の一面を正直に認めるべきです。何故なら、天の父は、
こんな罪人を救うためにイエス様を送られました。そして、ご自分の御子の命と引き換えに、イエス様
を人の罪の身代わりとして捧げ、贖いをして下さったのです。しかしながら、この罪人が実際に罪の
状態から贖われるのは、イエス様の再臨の時です。(ピリピ3:20~21)ですから、それまでの
私たちは、この地上で自分の弱さに苦しみ嘆くのは、仕方が無いことです。(ロマ8:22~23)
しかしそれでも、救いのもう一面として、私たちには「イエス様のアオリスト形の救い」があります。
それは、本来の救いの一面として、罪人のままでも、救われている自分があるからです。だから、敗北感
の中に沈み込む必要はありません。なぜなら、私たちはこの地上にいる間は、「人に勝とうとする
気持ちを持つ」必要はないからです。そもそも、生まれながらに人に勝てるような能力を持って
いないのですから、「勝たなくてはダメだ」という世界に身を置かなくても良いのです。それが
分かったら、私たちは楽になります。そして、本来の救いの一面として、こんな私たちにも、地上
にあって「自分の力に頼るのではなく、全能主の力に頼って生きて行けばいい」、という特別な道が、
クリスチャンには備えられているのです。それは、クリスチャンが地上にいる間、イエス様を信じる
心によって「主に信頼し、主が成し遂げて下さる」という世界があるからです。だから、たとえ自分
自身は弱くても、全能主に頼って、ひたすら信じて行う時、「主が成し遂げて下さった」という恵み
を味わうのです。即ち、「わたしの力は、弱いところに完全に表われる」という、御言葉が実現するの
です。ですから、「私たちは、喜んで自分の弱さを誇ろうではありませんか!」と記されてあったの
です。これが私たちの正しい誇りです。なぜなら、「全能主を信じ切って良かった」という確信に
繋がって行きますから。このように、私たちは「弱い人間」であっても、全て「主が成し遂げて
下さった」という、喜びと感謝に満ち溢れるようになるのです。この真理と勝利を是非掴んで下さい。
パウロは、このような確信から「喜んで自分の弱さを誇った」のです。
(結)こういう訳で、私たちは生まれながらに敗北者であり、自分で自分の肉をどうすることも出来
ない罪人です。だから、こんな自分に頼って、人に勝つ必要はありません。むしろ、「勝たなくて
いいのです。」それは、どんなに敗北者であっても、クリスチャンには「全能主に頼って生きて行く道」
が与えられていますから。即ち、「主に信頼せよ。主が成し遂げて下さる」という、ミュラーさんが
味わった勝利の生き方です。この生き方を私たちも始めれば、この地上にあって「主を信頼する中に
飛び込んだ者は皆、主が成し遂げて下さった」という勝利を味わうのです。これが、弱さを持った
人間の勝利の秘訣です。ならば、もう弱い自分に頼って人と競争し、勝とうとする人生から、おさら
ばして下さい。私たちは、ただ、「主に信頼せよ。主が成し遂げて下さる」と、全能主を信じ切った
特別な道の中で、勝利して行くのです。すると、自ずから「人に勝たなくていいのだ」という
平安な気持ちになって行くでしょう。こうして、何事も全能主に対して、一途にやって行く時、信仰
による勝利の一面として、以前の自分ではない、新しい自分を発見するでしょう。これが、この信仰
の勝利の道を歩む、クリスチャンの生き方です。皆さんもキリストを信じた者として、勇気を持って
全能主に一途に信頼して、弱い自分でも、この生き方をすると決心して下さい。そして命閉じる時
まで、どんな苦難の中におかれても、弱い自分が信じる道を通し、全能主を信頼して生涯を全うして
行きましょう。
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