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                                                                                                                              2022年2月20日


全能主から頂いた助けや賜物によって

第Ⅰペテロ4章1~6節

(起) 第Ⅰペテロ4章1~6節の御言葉から、自分に根拠を置くのではなくて、全能主から頂いた助けや

賜物
によって、全能主の栄光の証しを残して行くこと」を学んでいきたいと思います。



(承)さて、この箇所はイエス様の十字架上の苦しみについて書かれています。その苦しみは、自分自身の

ためではなく、「私たちのために苦しまれた」もので、私たちはそのキリストの苦しみを見た訳でも、

味わった訳でもありません。しかし、その贖いの死を私たちは信じたのです。このことを信じたのは、

まさに奇跡です。というのは、「見てもいないことを、ただ言葉だけによって受け止め、心の中に信じ

受け入れた」からです。このような
ことは、普通では()()ないことです。しかし、私たちには

御霊の語り掛けがありました(第Ⅰコリント12:3)。それは信じる時に、御霊という霊から「信じな

さい」「信じればいいのだ」
という語り掛けを受けたのです。私たちは、御霊によって自分が罪人だと

分かった時、この救いが自分には
必要だという心が与えられ、信じることが出来ました。この御霊から

の語り掛けは、それ以後も私たちは日々味わっているものです。ですから、実際に見ていないことでも

信じることが出来たのです。



(転)では、「罪人である私たちが、全能主を信じて生きる」とは、どういうことか見ていきます。

そこで、4章1節
では、「あなた方も肉体において苦しんだ人は、それによって罪との関わりを断ち切り

ました」
とありますが、これは、ペテロ自身のことを言っています。ペテロは、三度もイエス様を知らない

と言って
裏切ってしまいました。この経験から、彼は「自分が罪人の頭だ」ということを思い知らされた

のです。ですから、彼はもう「同じ(てつ)は踏みたくない」と心に刻み込み、「もう自分の決意だけでは、

生きていくことは出来ない」と思い知った(はず)です。ですから彼は裏切りの行為によってただ落ち込んで

逃げて行ったのではなく、そこから次にどうすべきかを考えながら、仲間の
集まっている所に留まってい

ました。これが大事なところです。なぜなら、イエス様が「立ち直ったら、兄弟達を
力付けてやりな

さい」と言われていたからです。
ということは、2章24節に「私たちが罪に死に、義に生きるため」と

書かれてある御言葉と、1章
15節にある「あなた方自身も、あらゆる振る舞いにおいて聖なる者であり

なさい
」と書かれてある御言葉の真意は、「道徳的に聖なる者になれ」ということではなく、「立ち直っ

たら、兄弟たちを力づけ
てやりなさい」と言われた、イエス様の言葉に留まることでした。ですから、

「義に生きるとか、聖なる振る舞い」という御言葉の真意は、「全能主が良しとされる義と振る舞いの事

で、人間が考える道徳的な義や振る舞いのことではない」ということが分かります。
なぜなら私たちは魔物

の声を抱えている「罪赦された罪人」ですから、道徳的に
聖なる者になることは出来ません。もし、「道徳

的な義」であるなら、追い求めていこうとする気持ちは持てても、
到底全能主の聖に到達できるもので

はないからです。ですから、「聖なる者であれ」というのは、「道徳的な人間に
なれ」ということとは違う

のです。しかし、そんな罪深い私たちにも、アオリスト形の義があるのも事実です。即ち、過去において

イエス様が十字架によって贖いをしてくださったという
アオリスト形の義が実現しているので、こんな

罪人の私たちでも「救いが実現されている」ということを信
じる事が出来るのです。しかしながら、

実際にこの身体が
贖われるのは、イエス様の再臨の時なのですから、その時まで信じ続けていくことが、

私たちの信仰の忍耐です。だから、私たちは信じ続けることは出来ても、道徳的に聖なる者となるのは

不可能です。
こういう訳で、「私たちが全能主を信じて、全能主のために生きるというのは、どういう

ことかと言いますと、「全能主のアオリストの救いの中に生きる」ということです。もし全能主の御心が、

道徳的に「聖なる人間となれ」ということなら、全てが律法的になってしま
うのです。しかし、もう罪人だ

とはっきり分かった人間には、ペテロのように「私がやります」という言葉は、とても言えません。

しかし、自分が罪人だと認め切っていないなら、ペテロのように「私がやるんだ」と
大言壮語を吐き

たくなります。しかし、所詮罪人のすることですから、「言うは(やす)く、行うは(かた)し」となってしまい、

自分のレベル
に押し下げて全能主の考えやレベルから離れてやろうとしてしまうのです。ですから、根本的

に私たちの考え方を
変えるべきです。もし、全能主から「これをやってくれ」と言われたら、「全能主は

何をやってくれ」と言われているか、「どういう考えや意図でやってくれ」と言われているのかを、

全能主の側に立って考えることです。そうすると全
能主は、私たちが罪人だと分かっている前提の上で、

「私が助けるから、こんな風にやってくれよ」という全能主の意図が分かってきます。即ち、「全能主の

助けを前提にして、全能主を信じて全能主のために生きる」
ことが分かってきます。罪人の私たちに「お前

力でやれ」とは、絶対に言われないのです
「全能主が助けて下さり、成し遂げて下さるのです。」

すなわち、
ここで初めて「あなたの道をヤハウェにゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げて下さる」

(詩篇37:5)
という御言葉の真理が見えて来ます。全能主が助けて下さり、私たちに成し遂げさせて

下さるのですから、私たちの方が「ありがとうございます」と言えばいいのです。そして、次にまた

仕事を
させてもらった時も「全能主の助けがあってこれをさせて頂きました」と感謝するのです。

この心を持って全てのことをしていくなら、知らない内に、全能主の御心のままに、「義と慎みと

聖なる中」に、生きて行くようにされて
行くでしょう。これがクリスチャンの全能主を信じて、全能主

のために生きる
歩み方なのです。



(結)
最後に1章22節から、「あなた方は真理に従うことにより、御霊によってあなた方の魂が(きよ)

られ」
と書いてありますが、この御言葉は、「全能主の側に立った考えの中で、ひたすら歩むとき、あなた

方の魂が聖められる」
という事を指し示しています。それは、決して自分の努力で聖められるものでは

なく、御霊によって聖められて行くものです。自分の努力で聖められるなんて考えるのは、罪人にとって

傲慢であり、
間違っています。すべて御霊の導きの中で、全能主の助けの中で成されて行くものです。

だからこそ、その道
に歩む者を全能主は喜んで下さいます。全能主の助けのないところでやる我々の行い

は、罪人が勝手に()ることですから、歪んだ行いをして行くことになります。全能主の助けのない中

()ったことは、自分が誇るだけで、全能主から喜ばれることはありません。私たちは、すべて御霊の

助けによって、聖なる香りを放って行くのです。ですから、私たちは最後の最後まで、自分の行ない

を根拠に置いてはいけません。
罪人の自分に根拠を置けば、悪魔の餌食になるだけです。ですから、絶対

主に助けを頂いて、全能主の側に立った考えで、そのまま行って行こうとする方向へ向かって行きま

しょう。その道は、「主に信頼せよ。
主が成し遂げて下さる」道です。
この真理に到達し、御霊に導かれて

いく道を、命閉じる時まで成し遂げて行こうではありませんか。そして、「自分に根拠を置くのではなく

て、全能主から頂いた
助けや賜物によって、全能主の栄光の証しを残し」、この命を閉じようではありま

せんか。

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