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                                                                                                                         2021年9月19日



全能主の為に100倍の実を結んで行く』

マタイの福音書13:1~9、18~23

(起) マタイ13章の「種蒔きの譬え」から、肉の問題はどうでもいいと思えた時に、肉の思い

が心の器の
下に沈み、霊の部分が上澄みとなって現れ、全能主に従う決断ができます。その信仰

の決断を持って、「
全能主のために100倍の実を結んで行くこと」を学んで行きたいと思い

ます。


(承)さて、私たちは、「『まず、第一に全能主の国と全能主の義とを追い求め続けなさい。そう

すれば、これらの
ものはすべて添えて与えられます』という御言葉を本気で信じて実践して行く

こと」を学んで来ました。しかし、この生き方を本気で始め出すクリスチャンが少ないのが現実

です。なぜなら、「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかという、生活の問題を全能主

に任せきって本当に食べていけるのか?」
という疑問がつきまとうからです。しかし、聖書は

この問題について、はっきりと教えています。(たがや)す者は望みを持って(たがや)し、穀物(こくもつ)脱穀(だっこく)する

者は、その分け前を(もら)う望みを持って脱穀(だっこく)します。(第一コリント9:10)
と語られています。

この
教えの意味は、「与えられた仕事に専念して行く時、生活のために気遣っていては、仕事に

専念できません。ですから、仕事に専念する者は、当然のこと、その人の生活のことは、その

仕事をさせている主人が責任を持ってくれるので、その主人に任せきれば良い。」ということ

を、語っているのです。これは当然の理屈でしょう。ですから、もし私たちが、全能主の仕事に

専念しようとするなら、全能主がその人の生活については責任を持って下さいます
「福音を

宣べ伝えている者たちが、福音によって生
活すべき事を、主は定めておられます。(第一コリ

ント9:14)」とあるからです。
しかし、これは直接、全能主の仕事に専念する者(伝道者)

のことです。
しかし、皆が全能主の仕事に直接専念出来る訳ではありません。しかし、全能主

の仕事のために協力していこうとする事は出来ます。そういう人には、
当然、全能主は伝道者に

準ずる配慮はして下さいます
。ですから、
その人が世の仕事に()いていても、如何に全能主を

第一にして、その心を持って具体的に生きていこうと
するかが大切です。それをすれば聖書の

約束が、その人にも現実のものになって行くからです。しかし、今はまだ直接全能主のために

働く時ではありません。ですから、この世の仕事に専念して、自分の生活を支えて行くことが

必要です。しかし、「全能主のために生きて行きたい」と思っているなら、必ずその時が来ま

す。その時までは、
この世の仕事のために働き、そこにエネルギーを注いで行けばいいのです。

それなのに、この御言葉を
曲解して、「天からマナが降って来る」ような事を考えるのは、今は

ふさわしくありません。また、もし患難
時代の中に入って行った時には、モーセの時代に起った

出来事も起りうるでしょう。なぜなら、「信仰によって
山に向かって海に移れ」と言えばその通り

成りますから。モーセの時は、旅の途中の最中(さなか)でしたから、その旅に導いた全能主が責任を取って、

天からマナを降らして下さいました。
また、新約でも、五千人の養いと四千人の養いがありました

が、それも主の許に集まった者を、主が放って置くことができなかったからです。現実に必要な時に

は、そういう事も起こり得ることです。全能主は、昨日も今日も
変わらない御方だからです。

ですから、信仰は「目に見える地上の世界から離れて、目に見えない信仰の世界に切り替え、

全能主に頼って行くことは
正しいことです。」しかし、この信仰に立てず、全能主を信頼しき

れずに、これまで多くの者たちが(つまづ)き、教会からも去って行きました。
その者たちは、種蒔き

の譬えで言うと、道端に蒔かれた種岩地に蒔かれた種茨の中に蒔かれた種です。しかし、

そんな中で、今も尚ここに留まっている私たちは、良い地に蒔かれ
た種です。だから、私たち

はこれから30倍、60倍、100倍の実を結んで行く者なのです。それは、「直接全能主の

為に働き、全能主の国と全能主の義を追い求め、食べる物も、
飲む物も、着る物も、全て与え

られて行くという事を、現実に地上で味わって行き、全能主のために実を結んで行く者なのです。」

そし
て、願わくば100倍の実を結び、結んだ実は全て全能主の栄光のために捧げるのです。

それが、私たちの残り
の生涯です。


(転)
では、100倍の実を結んで行くために必要なことは何でしょうか。それは、ここ最近

ずっと学んで来た
ように、霊と肉を分けて、霊の上澄みの部分だけで全能主に従って行くことです。

しかし、その決断をして行く時
悪魔は邪魔してきます。それは、悪魔は私たちの肉の弱い部分を

全て知っていますから、その部分に働いて
「そんな、うまく行く訳がないだろー」と、私たちを

揺さぶってきます。ところが、それは霊と肉をごちゃ混ぜの状態のままにしているとそうなり

ます。ですから、自分の肉の弱い部分や、自分が執着している部分が一体何
なのかを考え、

そこで思い切って「肉の問題はどうでもいい」と退けていくのです。すると、霊の上澄みの部分で

考えることが出来、
全能主に従う道に進めるのです。それが、100倍の実を結んで行く(こつ)

即ち勘所(かんどころ)です。
また、もう一つの(こつ)は、霊の図々しさを最後まで通して行くことです。私たち

罪人は、この地上にいる限り、死ぬまで罪の肉を持っており、これを無くすことは出来ません。

しかし、このどうしようもない、消し去ることの出来ない罪を、イエス
様が代わりに負って贖って

下さいました。その贖いの故に、本来なら赦される筈のなかった人間が赦されたのです。

これがアオリスト形の救いです。
そして、その
救いを私たち罪人が図々しく求めることを、イエス

様は許して下さいました。
だから、私たちはこの図々しさを途中で諦めてはいけません。悪魔は

その部分を攻撃し、「お前のような人間が、そんな図々しい心で
受け入れられる訳がないだろ

う」とか、「お前は偽善者だ」とか
言って来ますが、私たちは正しいことを行おうとしている

のではなく、ただイエス様の贖いを信じ通そうとしているだけです。だから、
私たちはイエス

様を信じることにおいて臆病になる必要はありません。だから、いくら悪魔が()ついて来ようが、

そこは霊の上澄みで考えるべきです。こんな罪人でも、イエス様を信じることを
許して頂いたの

ですから、「私にはこれしかありません。主に従って行きたいのです」と、図々しく言い切って


行くのです。この霊の図々しさを最後まで通すことが、結果的には100倍の実を結んで行く秘訣と

なるのです



(結)最初に、お話しした通り、今ここに残されている私たちは、茨の中を通り抜けて、良い地に

蒔かれ
た種です。どうか、それなら100倍の実を結んで、主の栄光を現していきましょう。その為

に、肉の問題はどう
でもいいと砕き、肉の執着心を心の器の下に沈め、霊の上澄みの部分で絶対

主に従う決断をしましょう。
また、明らかに、私たちは生まれながらに取るに足りない者です

が、それだからこそ、イエス様に図々しく従い通して行くのです。
その図々しさは、()い意味

でマグダラのマリヤさんの信仰に習うことです。
ですから、私たちも遠慮する必要はありません。

どうか、このことを悟って始め出しましょう。そして、聖霊に満たされながら全能主の
ために働き、

100倍の実を結ぶ者とされようではありませんか。 

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