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2020年 NO.715


罪を認めるとは、自首する行為と同じ


 クリスチャンが自分の罪を認めて、絶対主の前に告白することは、犯罪人が自首して

警察に行くことと同じです。即ち、どんなに自分の罪に苦しんでも、それだけでは罪を

認めたことに成りません。なぜなら、いくら罪を認めて悔いても、自首しなければ、

罪から逃げている逃亡者と同じで、罪の裁きを負ったことにはなりません。絶対主が、

罪人を赦されるのは、自首してくる罪人です。なぜなら、自首する人は、自分の罪の

責めを全て受け止めて、恥も外聞も隠さず認め切った人だからです。絶対主は、その

ように罪を認め切っている者には、「砕かれた悔いし心を(さげす)まない」と言って、

赦して下さるのです。ところが、人間は外側に現れた罪だけが罪だと思って軽く考えて

います。だから、隠れた罪は認め切ろうとしません。しかし、本来の罪は人の心の中に

あります。例えば、「不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、

誹り、高慢、愚痴」これらの悪は、全て心から出て来るものです。なのに、心の中の罪

は、「人間なら仕方が無い」と言って誤魔化してしまうのです。しかし、絶対主は人の

心の中を見ておられるので、「全ての人間が罪を犯したため、誰一人言い訳が出来ない」

と、あります。ならば、絶対主の前には、自分の罪を誤魔化すことは一切出来ません。

しかし、クリスチャンでも心の中の罪を正直に認めて、絶対主の前に認めきる人は少ない

のです。なぜなら、怒られたり、自分の弱さや恥を思い知らされるのが嫌だからです。

だから、罪の責めを感じても、その裁きを避けて罪をあやふやにしてしまうのが一般的

です。それは、「罪を悔いて、罪人として認めているからいいでしょ。」と、罪の責任

を取らずに、「恵みで赦されるはずだ」と勝手に考えているからです。それでは、警察

から追われ続けている者と同じで、赦しの平安はありません。どこまでも裏街道を隠れて

生きていくことになります。絶対主に対して自分の罪を認めようとしない人は、絶対主

からの怒りを恐れてその報いから逃げようとしているだけ
です。

 ところが、イエス様の時代では、人々から罪人扱いされて嫌われていた取税人や遊女

は、当然裁かれる者であることを覚悟しつつ、主の前に自首して来た罪人でした。

それは、十字架上の犯罪人もそうです。彼は十字架の裁きを逃れようとしたのではなく、

自分から罪を自覚して告白しました。だから、イエス様は彼にパラダイスを約束された

のです。しかし、プライドが砕かれるのを嫌って、反発していたパリサイ人や律法学者

たちは、絶対主から遠ざけられました。

 では、私たちは、どちらの側に立っているのでしょうか?キリストの救いは、「生まれ

ながらに根っからの罪人のための贖いです。」なのに、もし自分は、「警察に自首しな

ければならないほどの罪は犯していない」と言うなら、その人は、心の中の罪を誤魔化

し、「白く塗った墓」である自分を認めていないことになります。そういう人は、キリスト

の贖いの対象には成りません。罪人が、「罪人として落ち切らなければならない」ところ

に落ちず、(たか)(くく)って高飛車(たかびしゃ)なプライドの中で生きて行くなら、絶対主は「お前とわたしは、

何の関わりもない」と言われ、御国から遠ざけられてしまうのです。キリストの贖いは、

心の中の罪を認め切った者たちのものです
犯罪人が自首すると言うことは、自分の罪

の重さを自覚して、その罪の報いとしての裁きを、潔く受け入れた者のこと
です。

生まれながらの罪人は、皆取税人であり遊女です。

 ですから、キリストを信じたクリスチャンは、常に自首する犯罪人のように、罪を

認め切った者として「砕かれた悔いし心」を持って絶対主にへり下って行くべきです。

どうか、この遜りの心を持って、絶対主に従い通しましょう。

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