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2019年 NO.707


真理の二面性


 真理の二面性は、聖書だけの特徴的な真理ではなく、この世の中でも、全てに

二面性があります。例えば学校で学ぶ時、他人から一方的に教えて貰うという一面

と、自分が努力して身につけて行くという二面性があります。即ち、授業は自分の

能力に関係なく授けて貰うという一面と、学んだものを自分の努力で昇華(しょうか)して

いくという二面性があるのです。これをもし一面的な捉え方だけをすれば、学校は

義務教育だから、生徒は「ただ学校に行きさえすれば良いとか、聞いていればそれで

良い」ということになります。それでは、知識を身につけていくことが 出来ません。

ですから、学びは一方的に聞くだけでは済まされず、自分も聞いたことを確認して

学んでいく努力が要求されるのです。
ここに、学ぶということの二面性があります。

 この事は、信仰の面でも言えます。救いの一面は、イエス様の贖いという十字架の

死を通して与えて頂いたものですから、私たちの側では、何の努力もなく信じて受け

取るだけ
という一面です。しかしもう一面は、その救いを受け取ったというだけでは、

救いの奥深さも分からず、ただクリスチャンが習慣的に教会に行くだけで、「救いの

望み
どんなものであるか」、また「絶対主の全能の力が信じる者にとって如何に

偉大なものであるか
と言う事を味わい知ることなく終わって仕舞う事になります。

これでは、「家が仏教だから、私も仏教徒です」というのと同じになってしまいます。

だから、救いの二面性として、信じた者は本気で学んでいく努力が必要となります。

これは、救いが、恵みという一面だけではなく、信じた事を努力して行動で表わして

行くことによって、初めて「絶対主の全能の力が信じる者にとって、如何に偉大か」

を知ることになるからです。即ち、救いには「信じるだけ」という恵みの一面と、

「努力して信じる行動を取る」という二面がある
ということです。これが、聖書の

真理の二面性です。

 ところが、人間は努力することを嫌います。なぜなら、生まれながらに努力をして

も結果を出せないという、自分の能力の限界を嫌と言う程に知っているからです。

だから努力を求められると力が失せるのです。それは「自分には努力できない」と

いう苦手意識が強く働くからです。これは、「努力の成果を自分に()さなければ

ならない」というプレッシャーに陥るからです。ここで、クリスチャンの努力は、

一般の人々とは違うという大事なことを知ってもらう必要があります。それは、

「絶対主を信じた者は、自分の能力に頼って努力するということではない」と言うこ

とです。たとえ無能力な人間であっても、絶対主は「わたしが助けるから、わたしを

信じて努力しなさい」と言われる
のです。だから、この絶対主の言葉を信じて「自分

には出来ないと思っていたことも始め出す
のです。」それが、ジョージ・ミュラーさん

の証です。どうして、牧師をしていたミュラーさんがお金もないのに、30名の孤児を

集めて孤児院を始め出すことが出来たのでしょうか。それは、絶対主が「孤児の父は

わたしだ」(詩685)と書いてある御言葉を信じた事から、信じる行動を取って

始め出したのです。だから、自分の能力に頼らず、ミュラーさんのように絶対主を

信頼して始め出す努力がないと、「信じる者に働く絶対主の全能の力」を味わうこと

もなく、「ただ、恵みで救われたのだ」と御利益(ごりやく)に安住し、単なる仏教徒のよう

に形だけのクリスチャンで終わってしまいます。それでは、せっかく救われた信仰の

幸いを味わい知ることがないでしょう。このように、学業でも、信仰でも二面性の

真理があるのです。ですから、努力を恐れずに「信じる者に働く絶対主の全能の力」

を味わわせて貰いましょう。
「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

(ヨハネ2027


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