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2020年 NO.709


空っぽの器に油が注がれる
 

 第二列王記4章1〜7節には、寡婦(やもめ)が空っぽの器を差し出すと、どんどん油が

注がれ、それによって「その家庭が祝福された」と 記されています。この寡婦(やもめ)

したことは、ただ空っぽの器を用意するだけでした。そして、空っぽの器が差し出される

間は、油が満たされ続けたのです。このことから、聖霊に満たされる為には、私たちが

「空っぽの器を献げれば良い」ということが示されました。この「空っぽの器」とは、

クリスチャンにとっては、心の中の「我」を明け渡すと言うことです。ところが、人が

自分の「我」を明け渡すことは簡単なことではありません。なぜなら、人は生まれな

がらに、自分の思いを通そうとする強い「我」があり、自分の肉の思いを優先し、自分

の考えに凝り固まり、損をしないように損得勘定に走る者だからです。しかも見栄っ張り

で、罪人であるのに良い子振り、嘘を付いてでも自分を守ろうとします。これは、クリス

チャンになってからでも続いている肉の癖です。私たちは、信じてからでも未信者と同じ

古い肉の癖の中に陥っていました。これでは、「空っぽの器に油を注ぐ」という約束の

「聖霊の満たし」を受ける余地を失ってしまいます。しかしながら、私たちは、なかなか

この肉の癖をいくら無くそうと努力しても、(かえ)ってその肉の思いの虜になってしまう

のが落ちです。それでは、私たちはどうすれば良いのでしょうか? このままではいけ

ないことは十分承知できます。そこで今、クリスチャンは 自分の信仰の意識を改革を

していく必要があります。即ち、「絶対主を信じるのは、当たり前」という、信じた頃

の意識に戻ることです。信じた時の新鮮な意識は、「単純に主を信頼し、主を信じて

いけば良い」と思っていました。ところが、いつしか未信者の時と同じ意識に戻って

しまい、単純に信じる心がどこかへ行ってしまったのです。その信じる心はどこへ行って

しまったのでしょうか? それは、道ばたに蒔かれた種のように、空の鳥に食べられて

しまったのでしょうか。いいえ、そうではありません。それは、私たち自身が、世の

心遣いや富の惑わし、また世の友との付き合い(快楽)に心が向き、いつしか、信じた

時の心が失われ、世の人と同じ考え方に戻ってしまったからです。これでは、「絶対主

を信じるのは、当たり前」という意識が消えてしまうのは当然です。では、どうすれば

良いのでしょうか?

 
 そこで、私たちは「人間の肉は、命閉じるまで決してなくならない」ということを

もう一度思い返して、自分の肉の力で、「自分の肉の思い」を消し去ることを考える

のではなく、自分の意識を絶対主に向けて、もう一度「絶対主を信じるのは、当たり前」

という方向に心を変えて行くべきです。なぜなら、絶対主に救われたクリスチャンは、

自分の考えで生きていくのではなく、絶対主の考えで生きていくのが正しいからです。

ですから、「絶対主を信じるのは、当然のこと」という、この考えに疑問を挟む余地は

ありません。ということは、自分は「駄目だ、駄目だ」と考えるのではなく、自分の意識

をあえて「絶対主を信じるのは当たり前だ」という考えに変えるのです。


これが、「空っぽの器」を差し出すことなのです。クリスチャンは悪魔にみすみす自分

の信仰を奪われるような方向に意識を向けるべきではありません。この肉の考えから

離れたクリスチャンの意識が「空っぽの器」ですから
そこに油を注いで頂きましょう。

そして、絶対主の為に働くことは、当然努力も必要なことですが、自分の肉の努力で

結果を出すのではなく、絶対主の全能の力に頼って努力して行く事が正しい努力です。

この考え方は、決して未信者時代と同じではありません。この「絶対主を信じることは、

当たり前」という考えこそ、空っぽの器に油注がれる者の信仰です。
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