「主に信頼せよ。主が成し遂げて下さる。」(詩37:1)とあります。すなわち、
罪人が主を信じるとは、「こんな罪深い者でも 受け入れて頂ける」という福音に接
して、救って下さると言われたイエス様の贖いに信頼したのです。この信頼の心が
イエス様と繋がる接点でした。ならば、信じた者のそれ以後の人生は、罪人の自分に
信頼できるものは一つもありませんので、全面的にイエス様を信頼して生きて行く
生き方に変わって行くはずです。
ところが、未だに多くのクリスチャンが、自分に信頼して生きており、全面的に
絶対主に信頼を置いていないのはなぜで しょうか?もし全面的に絶対主に信頼して
いるなら、ジョージ・ミュラーさんのような生き方に変わっていたはずです。
ミュラーさんの信仰のあり方は、自分に信頼せず、絶対主に全面的に信頼し、どんな
に行き詰まっても、最後まで絶対主に信頼していく信仰のあり方です。�Uコリント
5章15節には、「キリストが全ての人に代わって死んだのは、生きている人々が
二度と自分たちのために生きるのではなく、彼らのために死んで甦らされたお方の
ために生きて行くためです」とあります。この御言に、「生きている人々が二度と
自分たちのために生きるのではなく」とあるのは、罪人は二度と自分の考え、思い、
感情を信じて 生きて行くのではないことを示しています。すなわち、罪人が自分の
判断に頼って行く脆さは、人の価値感と絶対主の価値観が違うからです。いくら
自分が正しいと思っても、絶対主に否定されたら、いったい何に依って立てばいい
のでしょうか。 また、逆に私たちが「間違っている」と思っても、絶対主は
「良し」と言われることがあります。それなら、初めから「絶対主に全面的に信頼
して行く」と決めて歩み出した方がいいのではないでしょうか。なぜなら、私たちは
イエス様を通して、絶対主を信じたのです。「信じる」と決めたのなら、御言に書いて
あることは、全部その通り起こると信じます。それなら、御言を全面的に信じて、
信頼して行く生き方に変えて行くべきでしょう。だから、自分で勝手に「何を食べ
ようか、何を飲もうか、あるいは 何を着ようかといって思い煩うのは止めなさい」
と警告され、「あなた方の天の父は、これらのものがことごとくあなた方に必要で
あることを知っておられます。ですから、まず第一に絶対主の国と絶対主の義とを
追い求め続けなさい。そうすれば、これらのものはすべて添えて与えられます」
(マタイ6:31・33)とあるのです。この御言を全面的に信じて、絶対主に信頼
し、ミュラーさんのように自分を信頼するのではなく、「絶対主を徹底的に信頼した
生き方」を始め出すべきです。 これを始め出すには、信仰の勇気が必要です。
まず自分の考えに立たないと決める勇気です。そして、絶対主に信頼し続けて行く
勇気です。この信仰の勇気こそ、絶対主とイエス様と繋がる接点です。自分を信頼
するということは、自分の感情を信頼しているのです。このことに気付きましょう。
自分に信頼を置く人は、自分の感情から離れたくないだけです。本物の理性的な理解
は、「自分の命は、自分のものではない」ということです。だから、全面的に絶対主
に信頼する考えが正しい理性的な判断なのです。「あなたの道をヤハウェに委ねよ。
主に信頼せよ。主が成し遂げて下さる」という御言を勇気を持って始め出しましょう。
たとえ、聖書で語られていることが分かっても、「自分の命は自分のものだ」と
思い続ける頑なさがあります。それが、人間の罪です。この人間の罪は砕かれないと
いけません。もし自分で砕くことが出来なければ、絶対主に、しきりに祈って砕く
方向に変えてもらわなければなりません。その時、自分を誇るものは何一つないこと
を知らされるでしょう。そして、自分の方から、絶対主に従属する道を選ぶでしょう。
必死な心で祈って、「砕かれた心」の中に入って行こうではありませんか。
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