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2019年 NO.705


『良い子であろうとする罠』


 人は、「良い子振ろう」とする一面を持っています。なぜなら、子供の頃から、良い子

であれば親から褒(ほ)めそやされますが、逆に親に逆らい、親の心を逆撫(さかな)ですれば、

こっぴどく叱られるということを味わってきました。ですから、たとえ表面的であろう

が、「良い子振っても」人に褒められようとする根性は、必然的に身についてきたもの

です。また、それは学校教育の中でも必然的に起こっていた現実です。しかし、もう一方

の二面性として、人間は生まれながらに罪人であり、心の中には魔物が潜(ひそ)んでいる

という現実があります。ですから、人前では「良い子振る」振る舞いをしても、心の中を

覗(のぞ)けば、誰でも「ずるい心」を持っており、「労することを嫌う心」は、誰の心の

中にもあります。だから、絶対主の前には、その心が偽りであり、偽善であることは明白

です。ですから、いくら「良い子振っても」褒められるどころか、裁きの対象となると

いう一面も存在するのです。


 
すると、クリスチャンの場合は、どちらの側に立つことが正しいのでしょうか?

結論から言えば、人は「自分が褒められようとする行為とか、人に認められようとする

行為は、絶対主に嫌われます。」なぜなら、生まれながらの罪人の心の中には、魔物が

棲(す)んでおり、いくら良い子振っても罪は消え去りません。
絶対主は心の中の真実を

見分けられますから、心の中にある「ずるさ」とか、「身勝手さ」は、絶対主にすべて

お見通しです。それは、隠し通せるものではありません。ですから、むしろ自分の醜(みにく)い罪

をそのまま認めて、偽善振らないことが、絶対主に受け入れられる道です。
ということ

は、自分の内にある罪の存在を正直に認めた者が、キリストの罪の贖いの中に生きて行け

る
のです。

 ところが、罪を認めたにも関わらず、もし、クリスチャンであるが故に、尚(なお)自分の

正しさを表して行くことは「正しいことだ」と考え、「人に褒めて貰おうと考えたり、

人に認めて貰う事が、何故いけないのか?」と自分の義を表わして行くことが、「正しい

ことだ」と思っているクリスチャンが多いのです。しかし、はっきり言ってその人は、

「自分の偽善に気づいていない」と言うことです。クリスチャンは、自分の罪を自覚した

からこそ、イエス様の救いを信じたはずなのに、すっかりそのことを棚に上げてしまって

は、未信者時代に逆戻りをすることです。罪とは、自分が褒められて満足することを求め

る心です。それが、ルシファーの陥った罪だからです。だから、作り上げた偽りの正しさ

は、その人を傲慢にさせ、人を裁くようになって行くだけです。


 そこで、結論としてクリスチャンは、どのような心で歩むべきかと言いますと、まず、

絶対主の前に人は罪人である事実と、自分の内にいる魔物の存在を認め、その罪人がする

行為はすべて偽善でしかないことを認識することです。その自覚を持つと言うことは、

正しいことをしなくても良いと言うことではありません。むしろ、本当は弱い人間であ

り、何をやってもまともに出来ない者ですが、主の助けを頂いて、一つでも二つでも、

一途な心で一生懸命していくことです。
この遜りの心が大事なのです。そんな中で主に

助けて頂いて出来たことがあれば、そのことで人は傲慢になることはない
でしょう。

むしろ感謝して主に「ありがとうございます」と遜っていけるはずです。この心こそが、

絶対主に受け入れられる心です。

 どうか私たちの内にある間違った努力によって、「良い子振る」のではなく、遜った心

で、一生懸命努力していくことが、正しい振る舞いであることを認めていきましょう。


それは、見せかけの正しさではなく、罪を認めた遜りの行いこそ、絶対主に受け入れら

れる行いであるからです。

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