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2019年 NO.696
変わらない肉の性質


 「聖霊と私たちは、あなた方に次の必要な事の他は、それ以上何一つ負担を負わせない

ことが、最善と考えました。」(使徒15:28)と、エルサレム教会の決議文が載せら

れています。なぜなら、「モーセの律法では義とされることの出来なかったすべての事

について、信じる者は誰でも、このイエスによって義とされるのです」(使徒13:39)

とあるからです。ですから、私たちクリスチャンは変わらない肉のために悩む必要はあり

ません。人間の肉は元々罪深く、ダビデは「私は咎ある者として生まれ、罪ある者として

母は私を身ごもりました。」(詩篇51:5)と語っているように、私たちは母の胎より

生まれた時から、罪の性質の中にあり、当然の如く完全無欠な人間ではありません。

ですから、生まれながらに人間的な弱さを抱え、臆病で、不安を抱え、それでいてプラ

イドだけは人一倍高く、始末の悪い身勝手な性質を持ち合わせているのが現実です。

それは、たとえキリストの救いを頂いた者であっても変わりません。なぜなら、キリスト

の救いは、アオリスト形(現在の本人の状態に関わらず、過去になされた事実を表す

時制)の救いであり、その救いは、人が死んだ時、罪に対する裁きが起こりますが、

キリストの御蔭で裁きから救われます。しかも、救われた者に約束された天の御国に

入れて頂く特権に預かるのです。ですから、救いを現実に味わうのは、天の御国に入れら

れた時です。という事は、救いを頂いた者であっても、地上にいる限り、現在の肉の性質

は、何一つ変わっていません。しかし、アオリスト形の救いのため、救われている者

です。それは、私たちが何か良い功績を残したから救われたのではなく、ただキリスト

の贖いがあったからです。
だから、クリスチャンだからといって、自分をよく見せかけ

ようとしても無駄です。むしろ、弱い人間のままであっても当然ですし、だめな人間で

あっても当り前です。元々罪人なのですから。このような訳で、エルサレム教会の決議

文では、御霊と使徒たちによって「何一つ負担を負わせない」と異邦人に書き送ったの

です。これによって、アンテオケ教会の人々は大きな慰めを得ました。それは、今日の

私たちにとっても、同じように感謝なことです。ただし、罪人がキリストの御蔭で贖い

を受け、天の御国が約束されたのなら、これからは、キリストのために生きたいと思う

のは、救われた者として当然起こってくる心の変化です。ところが、それは今までのよう

に弱い自分のままでは、キリストのために働けません。また臆病なままでも働けません。

だめな人間のままでは、決してキリストの栄光を表せないのも事実です。そこで私たち

も、ペテロさんたちのように、上からの力を頂いて働きをしたいのです。そのために、

「主なる絶対主がお召しになった者には、誰にでも約束された聖霊の満たし」(使徒2:

39)、すなわち聖霊のバプテスマによって、力と賜物を頂き、強くされ、勇気を与えら

れ、賜物を頂いて働きをさせて頂きたいと願うのです。その為には、弱い自分を認めて

遜り、空っぽの器だと認めて
主に祈り求めて行こうではありませんか。

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