教 会 案 内 牧 師 紹 介 定 期 集 会 特 別 集 会
定 期 メ ッセージ  シ ョ ー ト メッセージ 福 音 の 話
行   事 教 会 新 聞 掲 示 板 リ ン ク 事 務 室


2019年9月29日
他力本願の生き方

マタイの福音書16:21~28


(起)「『自分の努力による自力本願』ではなく、『自分自身を徹底的に否定し、わたしに

従って来なさい』と言われたイエス様に従う、他力本願の生き方」を学んで行きたいと思い

ます。

(承)さて、イエス様が弟子達に、「これから、わたしはエルサレムに行き、長老、祭司長、

律法学者たちから殺され、三日目に甦る」と話された時、その話を聞いていたペテロは、イエス

様を(いさ)めるために脇へ引き寄せ、「とんでもないことです。そんな事があってはなりません」

と言い出しました。すると、イエス様はペテロに「サタンよ。引き下がれ。あなたは絶対主の

ことを思わないで、人のことを思っている」と言われ、ペテロを厳しく叱責されました。

ここでイエス様は、何故こんなにまで厳しくペテロに言われたのでしょうか。それは、ペテロ

がイエス様の思いを悟ろうともせず、イエス様がどんな思いでご自身の受難について語って

おられるのか汲み取ろうとしなかったからです。ペテロは、ただ自分のご都合だけで、「イエス

様が死なれては困ります」と発言したのです。どういうことか申しますと、イエス様がこれまで

語られてきたことは、自分のためではなく、絶対主の意向に沿って、「自分の命を多くの人の

贖いの代価として差し出すために来た」ということをはっきり語っておられたにも拘わらず、

ペテロは理解していませんでした。それは、十字架にかかって死ぬことでした。ですから、

イエス様はその覚悟を持って弟子たちに話しておられたのです。しかし、ペテロは「そんな事

があってはなりません」と言って、イエス様の心を(くじ)こうとしたのです。だから、

ペテロの言葉は、一見「イエス様を思う優しさ」から出ているように思われますが、そうでは

ありません。ただ、ペテロは「イエス様が死んでしまったら、自分たちは、何のためにこれまで

従ってきたのか」という思いで、イエス様の言葉を否定してしまったのです。それは、イエス様

の事を思って言ったというより、自分のことを思って言った言葉です。イエス様は、ペテロの

そのような人間的な考え方を嫌われ、「サタンよ。引き下がれ」と言われました。


(転)それでは、私たちはどうでしょうか。実は、私たちも普段ペテロと同じことを考えて

いる者です。すなわち、絶対主から見た霊的な考え方ではなく、自分から見た人間的な考え方

が当たり前になっているからです。それはいつから始まったかと言うと、明治以降、文明開化

によって、ヨーロッパのヒューマニズムが入り込んで来た時からです。ヒューマニズムという

のは、人間が絶対主から自律して、個人の自由と個人の主権を重んじた生き方をすることです。

すると、人間は各々自分勝手な欲望を追い求めるようになり、「自分の考えを通すのは当たり

前」という方向に向かってしまいます。
これは、「人間の力ですべてを解決できる」という、

西洋のヒューマニズムの中心的な考え方です。
この人間中心の考え方は、明治以後の日本に

入って来て、今日の人々の間に根付いてきました。ですから、私たちは、生まれながらにその

ような教育の中で育ってきましたので、当然自分の力に頼って生きていく自力本願の意識が

強くあり、クリスチャンとなった後でも、依然自分に頼り、絶対主によって創られた命として

従うという生き方に変わっていなかったのです。しかし、
まだ明治以前の日本には、「滅私

奉公の心を持って殿に仕えていくという精神がありました。だから、キリシタンの人々には、

自分中心の考え方ではなく、上位の者に仕えていく自己否定がありました。
しかしながら、

今日には、この心は古い考え方として、心に留められず、無視されて来ました。

 ところが、聖書の救いは完全な他力本願です。と言うことは、もし救いを願うなら、上位の

お方である絶対主に聞き従って行くことが求められます。そこには、普段の生き方とは根本的

な違いがあります。ですから、私たちは絶対主から見た霊的な考え方をすることができず、

キリストを信じた後でも、自分中心に救いを考え、自分中心な従い方をして来たのです。

例えば、「自分自身を徹底的に否定し、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と

言われたところを読んだ時、それは自分に求められているのだから、自分の力で徹底的に自分

を否定しないといけないと考えます。しかし、私たちは自分の努力で自分を否定しようと思って

も、自分が自分を一番愛していますので、そんなこと出来る訳がありません。まして、自分の

力で十字架を負って行こうとしても、自分自身の心が嫌がります。また、「自分のいのちを

救おうと思う者は、それを失う」とありますが、それでも私たちは一生懸命自分の命を守ろう

とします。それは、「自分で自分を守らなければ生きていけない」と思っているからです。

しかし、それも絶対主から考えれば間違っています。私たちは、いくら自分で自分を守ろうと

しても、無理だと悟るべきです。私たちは、自分の熱心さで何ができるでしょうか。罪人の

することは不完全です。だから何も成功しません。だからこそ、私たちは自分自身を第一に

するのではなく、絶対主を第一にして生きて行く生き方に改めていくべきです。これは、完全な

他力本願の生き方です。


(結) こういうわけですから、私たちは子どもの頃から培ってきた考え方を改めなければ

なりません。私たちは、自由主義の教育を受け、「自分の考えを表し、自分の力で生きて行く

ことは正しい」と思ってきましたが、それは騙しです。
日本人が元々持っていた心はそうでは

ありませんでした。日本人は、どこまでも「滅私奉公」の心を持って、自分のためではなく、

上位の者に従いへりくだって仕えて行く心を養ってきました。その心こそ、イエス様に従って

行こうとする者の精神なのです。
また、それが絶対主に繋がる心だったのです。だから、

今こそ私たちはその日本人の心をもう一度取り戻して、絶対主にお仕えして行かなければなり

ません。この道は決して難しくはないのです。なぜなら、自力本願ではなく、他力本願だから

です。「自分で努力して、自分の力でやって行け」と言われているわけではありません。

どこまでも、「主に信頼せよ、主が成し遂げて下さる」のです。ですから、自分の努力による

自力本願ではなく、「自分自身を徹底的に否定し、わたしに従って来なさい」と言われたイエス

様に従う、他力本願の生き方に変えて行こうではありませんか。


 *メニュー
      * 教 会 案 内
      * 牧 師 紹 介
      * 定 期 集 会
      * 特 別 集 会
      * 定期メッセージ
      * ショートメッセージ
      * 福 音 の 話
      * 行       事
      * 教 会 新 聞
      * 掲  示  板
      * リ  ン  ク
      * 事  務  室