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2019年11月10日
絶対主の意向を実現して行く

使徒の働き11:1~18


(起)使徒11章のペテロとコルネリオの記事から、「どこまでも絶対主の側から物事を見て、

絶対主の意向を実現して行く生き方」を学んで行きたいと思います。


(承)さて、ペテロは、ある日幻によって「地上の四つ足の動物たちや、野の獣、這う物、

空の鳥などが入った入れ物が天から降りて来て、『それをほふって食べなさい』という声を

聞きました。その内容は、律法に反するもので、ペテロにはとても理解できないものでした。

ですから、もしペテロが自分の常識の中で考えていたら、即座に「汚れた物を食べろと言われる

のはおかしい」と無視したはずです。しかし、彼は思い巡らしながら、その幻が絶対主から出て

いる霊的な事柄であるのか、どうかを吟味しようとしました。すると、直ぐその後で三人の異邦

人がペテロを訪ねて来たのです。本来、ユダヤ人が異邦人を家に迎え入れることは律法に反する

ことですが、ペテロは自分の考えに固執せず、「これには、何か意味があるはずだ」と思って

彼らを迎え入れました。すると、ユダヤ教に改宗したカイザリヤのコルネリオというローマの

百人隊長が、「ペテロを招いている」ということを伝えたのです。そこで、その話を聞いた

ペテロは、彼らと一緒にカイザリヤに行くことにしました。そして、コルネリオから話を聞き

ながら気づきました。絶対主が「わたしが清めた物を、汚れているなどと言ってはならないと、

言われたことは、このことだったのか」と知り、彼らに福音を語り始めたのです。すると、彼ら

に聖霊が下りました。そこで、ペテロは言いました。「もし絶対主が、主イエス・キリストを

信じた私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお与えになったとするならば、どうして私

が、絶対主のなさることを妨げることができましょうか」(11:17)と言って、彼らに

バプテスマを授けました。

 この出来事は、絶対主の側から物事を見ていたペテロの経験であり、判断でした。このよう

に、絶対主の側から物事を見るということは、私たちにとっても大事なことです。なぜなら、

これからの私たちは、自分の願望のために生きて行くのではなく、「世の終わりの集大成」

という絶対主の働きのために生きて行く者として召されているからです。ですから、
私たちは

いつも自分の側から物事を見て、自分の願望を満たすことを考えるのではなく、ペテロのよう

に常に絶対主の側から物事を見て、どこまでも絶対主の願いを行うことに心を向けて行くべき

です。


(転) ところが、私たちは未信者時代から「自分の願望を満たしたい」という強い願いがあり

ます。日本人は皆、神社仏閣に行き、手を合わせて拝むのは、自分の願望を叶えてもらいたい

からです。ですから、「あの神社に行けば御利益があり、この神社に行けば願いが叶えられる」

と言って、皆その神社に行き手を合わせるのです。それは、まさに「困った時の神頼み」で

あり、その感覚が日本人の心の中には根強く残っている習慣です。そういう感覚が私たちクリ

スチャンにもあります。キリストを信じた時の動機を考えると、「信じれば願いが叶えられる」

と思って、御利益的な感覚で信じたところが少なからずある筈です。ところが、それは完璧に

ルシファーからの騙しです。本来、イエス・キリストの救いというのは、「裁かれるべき罪人

が裁かれずに済む」というものであり、「こういう自分に変わりたい」とか、「こういう願望

を叶えてもらいたい」と思って、キリストを利用するものではありません。現実に私たちが、

クリスチャンになったからといって、良い人間になったわけではありません。それは、自分の

努力で救われた訳ではないからです。絶対主は、「本来裁かれるだけだった人間が、罪の裁き

から解放されたのだから、それで充分だろう。その他のことは、たとえ罪人のままであろうが、

イエスの贖いの故にわたしはお前を裁くことをしないのだから、お前はそれでいいのだ」と

言われます。これが絶対主の考えです。それが分かったら、たとえ弱い人間であろうが、罪人

であろうが、どこまでも遜り、自分の罪は一生背負って行き、自分の願望のためではなく、

絶対主の願いのために、残りの生涯を用いていくのが、救われたクリスチャンの生き方です。

(結) こういうわけで、もう自分のために生きて行くのは止めましょう。私たちは一番大切な

ものを頂いたのですから、あとは絶対主に最後までお仕えして行くだけです。それは、どこまで

も絶対主の側から物事を見て、絶対主の意向を実現して行くことです。もう自分自身の弱さに

怯える必要はありません。また自分勝手に「強い自分になりたい」と、願う必要もありません。

これからは自分のことを追求して行くのではなく、どこまでも絶対主のことを追求して行くの

です。
そして、常に絶対主の意向を確かめて事を行っていきましょう。それは、どんな困難が

あっても、絶対主が「こうしてくれ」と言われたなら、この身を懸けてやって行くことです。


それで、もし命を失うことがあっても、それが絶対主に従って行く中でのことであるなら、

それで良いのです。命を絶対主にお委ねしましょう。私たちの御国は天にあるのですから。

どうか、どこまでも絶対主の側から物事を見て、絶対主の意向を実現して行く生き方を始め

出そうではありませんか。


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