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2019年10月13日
肉の思いから離れ、絶対主にかけて行く

マタイの福音書24:15~31


(起)「『自分の力は弱い』と認めた上で、この肉の思いから離れ、弱い罪人の私たちに目を

留めて下さった絶対主に、本気で信頼し懸けて行く」ことを学んで行きたいと思います。


(承)さて、ここでは、世の終わりのことについて記されていますが、まず15~21節を

見て行きますと、ここでは、患難時代に「荒らす憎むべき者」、すなわち「666の獣」が、

「世界を統一し自分の王国を造り上げて行こうとする企み」が記されています。この荒らす

憎むべき者がこの地に現れた時には、大患難が起こるとイエス様は語られました。「その時に

は、世の初めから現在に至るまで、かつてなく、今後もないような大きな艱難が起って来るから

です」(21節)。そして、29節を見て行きますと、「それらの日の患難の後、太陽は暗く

なり、月はその光を放たず、星は天から落ち、天体は揺り動かされます」という天変地異が

あります。これは、患難時代の後半に起こって来る黙示録に記された七つの鉢の災いです。

そして、30節には、この天変地異が起こった後に、いよいよ「その時、人の子のしるしが

天に現われます。・・・そして、人の子が、力と輝かしい栄光を持って、天の雲に乗ってくる

のを人々は見ます」とあるように、それらの天変地異の
その後に、イエス様は、天の雲に乗っ

てくるのです
ということは、患難時代の後半にイエス様がおいでになるということです

そして、初めてその後で、聖徒の携挙があります。「その時、二人の者が畑にいると、一人は

迎えられ、そして、一人は取り残されます」(40~41節)。すなわち、「聖徒」は患難の

後半までいるということです。これは、黙示録の記している通りです(黙14:12節)。

聖書は、決して患難の始まる前に聖徒が携挙されるとは記していません。クリスチャンが患難

時代を通るということは、イエス様の明確な言葉そのものです。

 しかしながら、今日のクリスチャンたちの多くは、「自分たちは患難時代を通らないから

大丈夫」と思っています。これは、「クリスチャンたちを眠らせておこう」というサタンの策略

です。私たちは、このサタンの策略を見抜き、しっかりと目を覚ましておかなければなりま

せん(マタイ2442節)。この患難前携挙説は、プリマス・ブレザレン運動のパイオニア、

ジョン・ダービーの思想の「切迫携挙説」を学んだスコフィールドが、20世紀に入ってイル

ミナティの資金援助によって注釈付きスコフィールドバイブルを作ったことから、急速にキリ

スト教会に影響を与え、今日に至っています。しかし、初代教会からは、13世紀に至るまで

は、このような考えはありませんでした。ですから、この状況をそのままにしておいたら、

私たちはサタンにやられっぱなしで終わってしまいます。そんなことがあってはいけません。


(転) では、私たちはサタンに対してどのように戦って行けば良いのでしょうか。まずは、

聖書に書いてあるままを受け入れていくことです。世界中のほとんどのクリスチャンは、サタン

に立ち向かって行く意識を持っていません。なぜなら、サタンに対して恐れを感じており、

「自分には勝てない」と思っているからです。確かに、私たちは自分の力では勝てません。

しかし、悪霊は絶対主に造られた被造物ですから、もし
私たちが絶対主に信頼する信仰の故に

悪魔に立ち向かって行くなら、絶対主が悪霊を退けられます。
どんなに強い悪霊であろうが、

被造物は創造主には絶対に勝てません。だから、絶対主が彼らの前に現れたら、彼らは退くし

かないのです。しかし現実は、私たちが絶対主に対する信頼を、はっきりと抱いているかどう

かに掛かっています。信頼する確信がない場合は悪霊は退きません。悪霊も馬鹿ではありま

せん。いくら私たちが力んでも、悪霊は退きません。そこには何の力もないからです。しかし、

「どこまでも、絶対主なら出来ます」という信頼があれば、絶対主はその追い出しに答えて

下さい
ます。ですから、私たちが中途半端な信仰で、半信半疑であるなら、逆にサタンがそこ

をついて来て、「お前の持っている信仰は何の意味もない」と言って私たちを揺さぶってき

ます。だから、自分に頼って何とか自分の力でやろうとしたり、自分を見つめて弱い肉に

留まっていたりすれば、ただ敗北するだけです。ですから私たちはその肉の心を折らなければ、

悪霊にやられてしまうのです。私たちは、その肉の心を折って、初めて本気で絶対主に信頼

して歩み出します。なぜなら、「私の恵みは、あなたに充分ある。私の力は弱いところに完全

に現れるからである」(第Ⅱコリント12:9節)です。しかしながら、私たちは肉を折った

としても、その肉は自分自身の中から無くなりません。悪霊に対して恐れを抱く、弱い肉の

性質は命閉じる時までなくなりません。でも、「弱い自分」ということは初めから分かって

いることですので、そんな自分に心を向けても何の答えも出てきません。その肉から離れて、

絶対主に懸けて行くのです。これが、患難時代を通って行くクリスチャンの生き方です。


(結) 自分の罪、自分の弱さは、私たちの中から消えません。それは死ぬまで背負って行く

ものです。しかし、「自分はあの時も出来なかった。あの時も失敗した。だから自分はもう

ダメだ」と言って、自分の肉に留まってはいけません。肉を温存すれば、その肉にいつまでも

(すが)ろうとします。そして結局、「弱い自分で何とかしよう」と、弱いクリスチャンになって

しまいます。そんな愚かは、もう終わりにしましょう。むしろ、私たちには、キリストの贖い

の御陰で、絶対主に信頼して行く事が赦されたのですから、
消えない自分の弱さを認めた上で、

この肉の思いから信仰によって離れ、絶対主に、本気で信頼し懸けて行こう
ではありませんか


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