ショートメッセージ
  
  
教 会 案 内 牧 師 紹 介 定 期 集 会 特 別 集 会
定 期 メ ッセージ  シ ョ ー ト メッセージ 福 音 の 話
行   事 教 会 新 聞 掲 示 板 リ ン ク 事 務 室
2018年 NO.637


                 ごう
罪人であると認め切れないクリスチャンの




 イエス・キリストの救いは、「罪人が罪人である」と、認めるところに入口があり

ます。ですから、信じる時は皆、自分が生まれながらの罪人だと認めて悔い改め、

「キリストの救いが必要です」と叫んで信じるのです。ところが、聖書を読み始め

出すと、「罪人ではいけない」という思いに駆られます。なぜなら、聖書に

「主よ、主よと言う者が皆、天の御国に入るのではありません。ただ、天におられる

わたしの父の御旨を行う者だけが入るのです」(マタイ7:21)とあり、

クリスチャンになると誰でも「イエス様の言われたように、正しい行いをしていかね

ばならない」と思うようになるからです。しかしながら、生まれながら罪人であった者

が、イエス様を信じて救われた後でも、この地上で生きている限り、自分の内には魔物

がいますので、なお魔物の影響を受けるという現実があります。ということは、キリ

ストを信じたからといって、この地上にいる限り、私たちは正しい行いをしたいと

思っても、出来ないのです。そこに魔物は働き続けるからです。すると、「罪人のまま

ではいけない」と思いつつも、イエス様の言われたように「右の目が罪を犯させる

なら、それをえぐり出して捨てなさい」と言われれば、五体の全てを失うことになり

ます。「五体の 一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなた

にとって良いからです」(マタイ5:29)。と言われても、できないものはできま

せん。すると、ただ真底罪人であることを認めるしかありません。ということは、クリ

スチャンは信じただけの罪人にすぎず、私たちは、御言葉の通り生きて行けない罪人で

あることを思い知らされるのです。


すると今度は、「イエス様の戒めを守らなくて、天に行けるのですか」と、不安に

なります。答えは、使徒行伝13章39節にあります。「モーセの律法では義とされる

ことのできなかった全ての事について、信じる者は誰でも、このイエスによって義と

されるのです
」とあります。なぜなら、行いでは義と認められない者が、イエス・キリ

ストの贖いが根拠で、罪の裁きから除外されるからです。それは「キリストが、すべて

の人の贖いの代価として、御自身をささげて下さった」(Tテモテ2:6)、からで

す。すなわち、「人は、自分で自分の罪を償っていないので、決して義人振ることは

できない」ということです。だから、人は生まれながらの罪人ですが、「私の罪の

償いがキリストによって為された」という贖いの根拠の故に、約束通り罪の裁きから

除外され、恵みで天に迎えて頂けるのです。これが救いです。


 ならば、私たちは、「自分が生まれながらに罪人です」とへり下るのみです。それ

なのに、もし自分は罪人のままであってはならないと思い、罪を犯している自分なの

に、「きよい者のように見せ掛けたり」、救われたのだから、「罪人であってはいけな

い」と良い子振って、形だけの悔い改めで終わらせるなら、偽善者振ることです。すな

わち、クリスチャンになってから、「罪人である自分を嫌がったり、罪を指摘されて

反発し、不満を表す」のは、罪人としての自分を認めず、義人であろうとする偽善者

です。ならば、イエス様の贖いは、関わりのないことになり、そういう人は、天に

繋がることはありません。どこまでも、「罪人として認めることを嫌がる人」は、

異邦人と同じ扱いを受けます。


 クリスチャンとなったなら、自分の内にいる魔物を認めて、一生涯罪人であることを

へり下って認めていくべきです。たとえ、絶対主から義と認められたとしても、自分は

償いをしていないのですから、自分を義人扱いしてはいけません。命閉じる時まで、

自分の罪の肉には魔物がいることを認めて行きましょう。それが救われた者のへり

下りの心です。


 *メニュー
      * 教 会 案 内
      * 牧 師 紹 介
      * 定 期 集 会
      * 特 別 集 会
      * 定期メッセージ
      * ショートメッセージ
      * 福 音 の 話
      * 行       事
      * 教 会 新 聞
      * 掲  示  板
      * リ  ン  ク
      * 事  務  室