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2018年7月29日

『全力を注いで主の業に励んでいく』

ヨハネの福音書1:29~34、第Ⅰコリント15:58



  
(起)ヨハネの福音書と第Ⅰコリントの御言葉から、絶対主の御心は何なのかをはっきり理解し、

その土台に堅く立って、「全力を注いで主のわざに励んで行く」ということを学びたいと思います。


(承) さて、バプテスマのヨハネは、メシヤが来られる道備えをする使命を受けましたが、

「そのメシヤとはどういうお方か」ということは、ヨハネには知らされていませんでした。(31節)

しかし、絶対主から、「ある人の上に聖霊が下って留まるのを見たら、その人が、わたしが送った

メシヤだ」と聞いていたので、ヨハネはそのしるしによって、「イエスがメシヤだ」と理解する

ことができたのです。そして、「私は、ついにメシヤを見たのです。それで、この御方こそ、

絶対主の御子であると、証言したのです」(34節)と語りました。

 ところが、ヨハネはその後捕えられて牢に入れられた時、自分の弟子をイエス様の所に遣わし、

「あなたは来るべきお方ですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか」と尋ねさせたの

です(マタイ11:2~3)。ヨハネは「この御方こそ、絶対主の御子である」とはっきり証言した

はずなのに、何故そのような質問をしたのでしょうか。それは、ヨハネが抱いていたメシヤの

イメージが違っていたからです。ヨハネは、「メシヤは、イスラエルの国を再興して下さるお方で

あり、この地上に来て、『絶対主が統治して下さる地上の御国』を再建してくださる方」だと、

考えていたからです。なのに自分は牢に入れられており、「イスラエルの救いが実現する時が来た

というのに、なぜ自分がその救いに与れないのか。アブラハムに約束された国をつくって下さる

お方であるならば、どうして私を助け出して下さらないのだろうか」と思ったのでしょう。

 しかし、絶対主の側に立ち、上から物事を見たならば、彼は助け出される必要はありませんでした。

なぜなら、
バプテスマのヨハネの使命は、「絶対主の救いの計画によるメシヤが来たこと」を、

人々に指し示すことだけだった
からです。ですから、イエス様が来られた時点で、彼の仕事は

終わったのです。あとは
イエス様にお任せし、命を閉じて絶対主のもとに帰れば良かったのです。

(転) さて、それでは私たちの仕事は何でしょうか。それは、世の終わりの「救済計画の集大成」

をする働きです。その仕事が終わったら、あとはもうこの地上で生きている必要はありません。

集大成の後には、ただちに患難時代の中に入って行くのです。そして、信じる信仰を証しして命を

閉じて行けば、それで良しです。また、
患難時代の中で殉教した者は、患難時代が終わった後に

甦り(黙示録20:4b)、千年王国に入ります。そこで、イエス様と一緒に王として治めて行く

立場に置かれるのです。千年間の地上の御国が終わった後には、白き御座の審判にすべての人が

出され、いのちの書に名が記されている者は御国に入れられます。この時、御国に入るための体、

すなわち、病もなければ死ぬこともないという御霊の身体が与えられます。

(第Ⅰコリント15:35~49) そして、私たちは絶対主の子(ヨハネ1:12)として御国

に入れて頂くのです。これらのことが、聖書には事細かく書いてあります。

 ですから、私たちがどのように生きて行くべきかということは、聖書を読めば明らかです。

ならば、私たちはもう、フラフラしていてはいけません。御言葉に堅く立って動かされず、いつも

全力を注いで主のわざに励んで行くべきです。(第Ⅰコリント15:58)しかしながら、私たちは

今、この世に身を置いて生きており、この世は、悪霊が支配している世です。ですから、教会から

離れて世に出て行けば、世の考え方に捕らわれ、世で喜ばれ、世の人に褒められることを求めて

しまいます。その生き方は、「自分の肉の願望の虜にな」るということです。それを続けて行けば、

いつかヨハネと同じように、上から物事を霊的に見れなくなり、地上的な思いに囚われてしまい

失敗します。しかし、もう一度聖書を読めば、自分たちが堅く立つべき所が分かります。そして、

自分の命の価値はどこにあるのか、自分の仕事は何なのかということを、霊的に意識できるはずです。


(結) こういうわけで、私たちには聖書が与えられているのですから、いつまでも弱々しく、

フラフラしているようではいけません。むしろ、
「聖書の御言葉に堅く立って、動かされることなく、

いつも全力を注いで主の業に励むのです。」
そのためには、「こうこう、こういう理由で、こう

書いてあるのか」と、御言葉の結論にたどり着くまで、読んで行く必要があります。結論に到達せず、

ちょっと頭で分かったつもりでいては、御言葉の確信が持てません。私たちは、
聖書の御言葉を

通して、絶対主の御心は何なのかを理解し、その絶対主の考えに基づいた考えに立って、初めて、

絶対主のための仕事をすることができる
のです。どうか、この土台に堅く立ち、全力を注いで主の

わざに励んで行こうではありませんか。
 
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