教 会 案 内 牧 師 紹 介 定 期 集 会 特 別 集 会
定 期 メ ッセージ  シ ョ ー ト メッセージ 福 音 の 話
行   事 教 会 新 聞 掲 示 板 リ ン ク 事 務 室



2018年5月13日

『偏った恵みの信仰と罪の棚上げ』

ローマ人への手紙1:21~32

(起) 「福音の恵みを偏って理解すると、罪を軽んじ、罪を棚上げしてしまう後遺症に陥り、その後の

信仰に悪影響も及ぼし、災いにもなって行く」ということを考えて行きます。また逆に、「自分は

罪深く弱くてダメな人間だと、自虐的になるだけで、そこに留まって主に信頼しない信仰も御心では

ない」ことを学んで行きたいと思います。


(承)さて、今日お読みした御言葉には、私たちの罪についてはっきりと書かれており、自分自身の

心の内側を見れば、ここに書かれてあることは自分その者であることが分かります。しかし、その

事実を事実として認めたくないという心も、私たちの中にあります。それは、何故かと言いますと、

私たちが過去に聞いていた福音の中に、注意すべき点が入っていたからです。それは、「恵みの

福音」というものです。その内容は「
私たちは、どうにもならない罪人です。しかし、そんな

罪人が、恵みによって救われたのです。
」と語られていたことです。その救いの教理自体には、全く

問題はありません。ところが、救われたあとの歩みについては、「罪人が恵みで救われたのだから、

あとは喜んで絶対主を証して行けばいい、罪の体は滅ぼされたのだから、罪の奴隷ではないのです」

(ロマ6:6)、と語られて来たことです。実は、そこに注意すべき点があります。なぜかと

言いますと、信仰の歩みに関して「罪人が恵みで救われたからと言って、罪がなくなった生き方が

出来るという訳ではありません。」だから、相変わらず罪の中にある自分は変わらないのが現実

です。その現実の中にあって、救われた喜びを感じて生きて行くには、自分自身の罪を無視して行く

しかありません。そうしないと、喜んで伝道していくことができないからです。このような偽善的な

生き方は、未信者時代にもやっていた事で、「罪を自らも行っているだけでなく、それを行っている

者たちに同意さえしている」(ロマ書1:32)ような、間違った生き方になってしまいます。

すなわち、「人間は罪人だ、それが人間なのだから」と未信者時代にそう思っていたように、クリス

チャンになってからも、
「自分は恵みによって救われたから、罪人の自分でもしかたがない」

思い込んでしまうことです。それは、「罪人が主の恵みで救われるしかないのだから、罪人で

あるのは当然だ」と、罪を棚上げしてしまうことになります。そして、「そういう罪人が救われたの

だから、もう何をしてもいい」という罪の意識さえ無視して、放縦の世界に入り込んでしまうという

問題が起こって来ます。 これは間違っています。むしろ今は、「罪に対する意識は、もっと

はっきり持つべきだ」と、教えられています。それは、罪の意識をはっきり持っていないと、

「自分はキリストのために一生懸命やってきた」と、それだけでいいと思い込んでしまうからです。

それは傲慢になる入口です。絶対主は、人間がそうなってしまうことを一番危惧しておられます。

なぜなら、キリストの救いを行いで仕上げようとすることになるからです。「むしろ、自分の罪に

対して悩んで、悔いて、嫌気を差してくれているほうが、安心だ」と絶対主は仰るのです。

なぜなら、救いはキリストの命と引き換えにされたもので、罪を軽んじればキリストの贖いの死も

軽んじることになっていくからです。それは罪人には許されません。ですから、人が罪の自覚を

失えば、イエスキリストの死を軽んじることになります。これは、恵みの福音で学んだ事とは正反対

です。私たちは、自分の罪を棚上げにするのではなく、むしろ自分の罪に悔いて、「自分は罪人だ」

という自覚をはっきり持っていなければ、キリストを十字架に付けた絶対主の涙を無視することに

なるのです。絶対主に とっては、罪人が「悔いし砕かれた心」を持っているなら、「その者を

軽しめない」(詩篇51:17)というのが御考えだからです。


(転)では、私たちは弱くてダメな罪人だからといって、何もやらなくてもいいのでしょうか。

決してそうではありません。そんな弱くてダメな私たちだからこそ、絶対主は御子の命を犠牲に

して、キリストに在って新しく生きる道を備えて下さったのです。ですから、私たちはイエスに

あって前向きに生きて行くべきです。「自分は弱くてダメな人間だから何もできない」と言って

惨めな自分を嫌い、そこから逃げて行こうとするのは間違っています。確かに、「弱くて何も

できない自分」は事実です。しかし、その中にあって、イエス様によって生きて行く道を絶対主が

開いて下さったのですから、イエス様にあって一つでも二つでも前向きにやって行こうとする信じる

心は必要です。私たちは生まれながらに罪の体を持っており、それは最終的には死ぬだけのもの

でしたが、イエス様によって永遠に生かされるという救いをいただいたのです。この復活があるが

故に、私たちはたとえこの地上で命を落としたとしても、それで終わりではありません。だから、

私たちは祈りつつ、絶対主やイエス様の助けを信じてやって行くのです。


(結)私たちは、自分の心の内側を見れば、どうしようもない罪人であることは明らかで、そんな

自分自身に嫌気をさします。しかし、絶対主は「嫌気をさしていてくれた方が安心だ」と言われる

のですから、私たちは罪の意識を持っていて丁度なのです。でも、弱くてダメな人間だからこそ、

こんな者を救って下さったイエス様に頼って、「できることをやらせて下さい」と前向きにやって

行くのが、罪人のへりくだった心です。逆に、そこで何もやろうとしない人間は、「弱くてダメな

自分を救ってくれた」ということだけにあぐらをかくのです。あぐらをかくということは、罪の

棚上げと同じです。それを絶対主は一番嫌われます。私たちは何事においても主に信頼する中で、

一生懸命やって行くことです。結果が出るか出ないかは、自分の力ではありません。むしろ、結果が

出なくても、ひたむきに信じ頼って行く心を絶対主は受け止めて下さいます。どうか、この砕かれた

悔いし心を持って、主に信頼して行く生き方を、ゼロの自分から始め出そうではありませんか。 

 
 *メニュー
      * 教 会 案 内
      * 牧 師 紹 介
      * 定 期 集 会
      * 特 別 集 会
      * 定期メッセージ
      * ショートメッセージ
      * 福 音 の 話
      * 行       事
      * 教 会 新 聞
      * 掲  示  板
      * リ  ン  ク
      * 事  務  室