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2018年4月22日

『ジョージ・ミュラーの信仰の世界に飛び込む』

~律法ではない立法的な信仰(自由意志)の定め~

マルコの福音書7:1~13

(起)「ジョージ・ミュラーの信仰の世界に飛び込もうとする者に、サタンが不安と恐れを与えて

ビビらせ、何とか妨害して諦めさせようとする悪魔の策略を見抜き、たとえ律法的な決断のように

思わされても、ミラーの信仰に堅く立つ決心をして行く」ことを学び、「一人一人が信仰の決断に

よってこのハードルを乗り越え、約束の聖霊の満たしを頂いて力を得、主の強者(つわもの)として始め

出す」ことを学んで行きたいと思います。


(承)さて、先日、絶対主から満たしの条件をはっきりと示され、聖霊のバプテスマのゴール

ラインが見えてきました。それは、「一人一人が、ジョージ・ミュラーの信仰の世界に飛び込み、

信仰に立つ心を持ったところから始まる」と示唆されました。この「ジョージ・ミュラーの信仰」

とは、どのような信仰かと言いますと、「主に信頼せよ。主が成し遂げて下さる」という、この

基本の信仰に立つことです。この生き方を始め出すには、
この世のご利益や損得の心を捨てなければ

なりません。
しかし、私たちは根っからの罪人ですから、損得の心を完全に捨て去ることは

できませんし、心から自然に湧いて来る御利益を願う思いも消し去ることも出来ませんが、それに

捕らわれないで、どこまでも絶対主に信頼する道を選択して行こうとする信仰は、持てるものです。

それを始め出すことが、「ジョージ・ミュラーの信仰の世界に飛び込む」ということです。それを

私たちが定めた時に、絶対主は私たちに聖霊の満たしを行い、働きを始め出そうと考えておられるの

です。


(転)しかしながら、この話に対して、「はい、分かりました」と素直に言うことのできる者と、

そうでない者がいます。そこで、全員が「はい、分かりました」と言って、ミュラーさんの信仰の

世界に飛び込む為には、どうしたら良いのか考えましょう。まず、「お前なんかに、そんなことが

できるのか」と言って足を引っ張る悪魔の語りかけを否定することです。そして、恐れようが

なんだろうが、「自分は満たしを受けて、絶対主の全能の力を知りたい」と願い、ミュラーさんの

言わんとする信仰の世界に、まず飛び込む」と定めることです。それは律法ではありません。

なぜなら、たとえ足を引っ張る悪魔の働きがあったとしても、「どこまでも絶対主の全能の力を

知りたい」と願う心は、本音だからです。私たちの本音は、信仰を妨げる悪魔を蹴散らかし、

絶対主へ自分の本音を向けて行くことです。それは決して律法にはなりません。本当の律法主義

とは、今日お読みした7章に記されていますように、律法に従っているように見せかけて、自分の

栄光を現すことです。それは、人前で見せびらかして祈る行為と同じです。また、洗わない手で

食事をしてはいけないと、些細なことにこだわって、絶対主を「心を尽くして愛する」という本来の

戒めを疎かにする行為です。しかし、私たちに対する今回の絶対主の導きは、そのような表面的な

律法とは違います。確かに、「私たち全員がミュラーさんの信仰に飛び込んで、始め出さなければ

なりません。」これは、ある意味で律法的に聞こえるかも知れませんが、それを自分の当たり前の

習慣にしたら、絶対主に喜ばれることです。例えば、私たちは毎日続けている聖書通読を、

日曜日に、必ずチェックされています。だから、何十年間も続けられてきました。

これと同じように、正しい習慣を身に付けていくときの律法は、自分にとって益です。もし通読の

チェックがなければ、空欄だらけになって、とっくに止めていたことでしょう。だから、律法は

律法でも、私たちにとって必要な律法もあるということです。
ミュラーさんの信仰の世界に飛び込む

ことに関しても、「主に信頼してやるのか、手っ取り早く自分の考えでやるのか、お前はどうする

のだ?」という問題が自分の目の前に起きた時、私たちは、自分に対してある程度の律法が

課せられていれば、「主に信頼していく道を選択しよう。そうするべきだ」となります。
それを

繰り返しやり続けることによって、ミュラーさんの信仰が自分のものになって行くのです。そういう

意味での律法は必要です。逆にそれがないと、簡単に諦めてしまう可能性が私たちにはあるから

です。


(結)イエス・キリストを信じた者は、信じた証しとして、「主に信頼せよ。主が成し遂げて

下さる」という世界に、自分の自由意志(信仰)で入って行こうとします。ですから、信じた者が

そこへ向かうための律法なら、それは正しい律法です。たとえ足を引っ張る悪魔の声が聞こえたと

しても、絶対主だけに信頼して行く道を選択することは正しいのですから、勇気をもってその習慣を

身に付けていくべきです。この選択を一人一人が、自由意志によって始め出すなら、絶対主への

一途な信仰が始まるでしょう。そして、悪魔の声も段々小さくなり、自分の中の損得の思いにも

蓋がされて行くようになって行くでしょう。どうか、まずはこの挑戦を、通読を始め出した時の

ように始め出して行きましょう。ただしこれだけは、目に見える形でのチェックができませんので、

その人の絶対主への(自由意志)信仰に掛かっていますから、「一人一人が、ジョージ・ミュラーの

信仰の世界に飛び込む」というハードルを自由意志で乗り越え、約束の聖霊の満たしをいただいて、

主の強者(つわもの)として用いていただこうではありませんか。

 
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