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2018年3月18日
純粋な自発的な行いによって、                      
                    絶対主に対する信仰を現わして行く


ピレモン1:8~20



(起)ピレモンへの手紙を通して、「純粋な自発的な行いによって、絶対主に対する信仰を現して

行く」ということについて学びたいと思います。


(承)さて、このピレモンへの手紙を読んで行くと、パウロさんも御多分に洩れず、「私たちと

同じような損得の心を持った人」であったように見受けられます。それは、「あなたが、私の御陰で

今のようになっていることについては、私は何も求めません。」と、恩着せがましく言っています。

この地上に存在しているすべての人間は、サタンの影響を受けたアダムとエバの子孫ですから、

心の内に魔物を抱え込んでおり、完全な人間は一人もおりません。ですから、損得勘定の心を皆

持っています。それは、パウロさんであっても例外ではありません。10節を見ますと、「牢獄の

中で私が産んだ子、オネシモについて、あなたにお願いしたいことがあります」とあります。

これは、実はパウロがローマの獄中で生んだこのオネシモは、元々はピレモンの奴隷でした。

ところが、オネシモは逃げ出して、パウロの所に来ていたのです。そして、パウロから福音を聞いて

信仰を持ったオネシモは、パウロにとって有益な助け人になっていました。パウロはローマの

一軒家に住んでいましたが、囚人ですから自由が利きません。しかし、もし(そば)にオネシモの

ような者がいてくれたら、どんなにか、パウロは助けられたことでしょうか。しかも、オネシモは

元々奴隷ですから、生まれたときから、主人に仕える従順さは当然のように持っていました。

だから、パウロにとってオネシモは、ピレモンに代わって仕えてもらいたいと考えていたことで

しょう。ですから、なんとか身近に引き留めておきたいと思ったのです。しかし、そこでふと考えた

ときに、「オネシモは元々ピレモンの財産です。だから、他人の財産を黙って使ってはいけない」と

思い、一旦、オネシモをピレモンの所に返すことにしました。そして、「その後で、もう一度オネ

シモを私の所に送り返してくれるなら」と考えたのでしょう。しかし、14節を見ますと、「私は、

あなたの同意なしには、何もしたくありません。あなたが強制されて良い行いをするのではなく、

自発的にすることを願っているからです」とありますので、最終的な判断は、あくまでもピレモンの

自由意思に任せていることが分かります。しかしながら、やはりパウロの本音は、「あなたの自由

意思で、もう一度オネシモを私の所に戻してほしい」ということであり、20節を見ますと、

「しかし、兄弟よ。私はあなたから、主にあって益を得たいのです」とはっきり言っています。

これを読むと、「パウロさんも、肉の世界では私たちと同じような損得の心をしっかり持っていた」

ということがよく分かります。


(転)しかし、この書巻が聖典として私たちに与えられているということは、この中に絶対主からの

大切なメッセージがあるということです。それは何かと申しますと、14節にありますように、

「自発的な行いによって信仰を現す」ということです。実は、その「自発的な行い」を、パウロ

自身がこの手紙の中で現しています。それは、
「オネシモをピレモンの所に返す」と決めたこと

です。
確かに、パウロの内には損得の心が働いていましたが、彼はその心と戦い、自分自身の損得

勘定を正しく治め、そこから離れて、「オネシモをピレモンの所に返す」と決めたのです。もし、

自分が得することだけを考えたら、黙ってオネシモを自分の所に置いていたはずです。また、

わざわざこのような手紙を書くこともなかったでしょう。もし、ピレモンがパウロの所に来て、

「あれはうちにいた奴隷ではないか」と気付いたら、「そうだったのか。彼は今、私のために一生

懸命仕えてくれているのだ」と、上手く話す事も出来たでしょう。しかし、パウロはそのような

ことはせずに、「一度、オネシモをピレモンの所に返す」と決めたのです。これは、損得から離れた

潔い信仰の行いです。そして、この行為はパウロが人から強制されてやったことでも、義務感で

やったことでもありません。「自分がそうしたいからする」という自発的な信仰をパウロは現したの

です。と同時に、その自発的な行いによる信仰を、ピレモンに対しても求めているということです。

(14節)そして、それは絶対主が私たちに求めておられることでもあります。私たちの絶対主を

信じる信仰というのは、「人が信じたから私も信じます」とか、「人がこう言ったから信じます」と

いう世界ではありません。
自分が福音を聞き、自分がその道理に納得し、自分が信じたのです。

だったら、自分の自由意志で、
「自分は絶対主に従って行く」とはっきり定め、その中で自発的な

行いを現して行くべきではないでしょうか。

(結)パウロは、たとえ損得の心を持っていたとしても、そこを乗り越え、自発的な行いを通して、

筋の通った 信仰を現しました。私たちも、今なお魔物の惑わしによって、損得の心は働きますが、

それに振り回されず、一人一人が純粋な自発的な行いによって、絶対主に対する信仰を現して行こう

ではありませんか。

 
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