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2017年 NO.617


『砕かれた心、その後の心のあり方』

 クリスチャンが、全面的に罪人であることを心で受け留めたならば、「何やっても駄目、もう

お手上げです」
というのが、砕かれた心の行き尽く所です。そこにある現実は、「へこむだけ」

です。そして、へこんだ心には、もう自分を当てにする根拠を失います。すると、キリストに

在って生きて行く道しか残されません。
ところが、このイエス・キリストこそが、どうにも

ならない罪人のために贖いの供え物となって下さった方です。ですから、イエス様は、「そこ

から始めなさい」と言って下さるのです。こうして砕かれた心を持ったクリスチャンの歩みが

始まります。


 では、砕かれた心を持つと、罪を犯さなくなるのでしょうか? とんでもありません。私たちは

キリストの贖いに預っている者ですが、「罪人である」という現実は変わりません。

ですから、失敗し、過ちを犯し、罪の中に 落ち入ります。すると、必然的にお叱りを受け、

怒られます。その時、砕かれた心を持っていた人は、自分を(かば)ったり、弁解したり、責任を

放棄して逃げたりはしません。なぜなら、全面的に罪人であるので、「叱られて当然」、

「怒られて当然」と思うからです。すなわち、自分の少しばかりのプライドにすがることは

しません。所詮は、「何やっても駄目、もうお手上げの者」です。だから、怒られる事に

同意して行きます。
このへり下りこそが、「砕かれた悔いし心を(さげす)まない」(詩5117

と言われた絶対主の心と繋がる入口となるのです。そこに、全面的に罪人であっても、平安を

頂いて生きて行けるクリスチャンの道が見えて来ます。このへり下った自由意志を持つ時に、

信仰を確立していく一歩が始まるのです。人は罪人ですので、砕かれた心から始め出さないと、

ルシファーのように自分の誇りを追求することになってしまい、絶対主の怒りの対象となって

行きます。どうか、この信仰の機微(きび)を掴み取って行きましょう。

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