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2017年3月26日



『自意識を横に置き、イエス様を見上げる心』

黙示録7:1~17


(起) 黙示録7章を通して、「患難時代において、殉教する者こそが『勝利を得る者』である」

ということを学び、そのために必要な事は、「自意識を横に置き、イエス様を見上げる心」で

ある、ということを学びたいと思います。
 

(承) さて、この黙示録の著者であるヨハネは、まず七つの教会に手紙を書き送りました。

エペソの教会から始まり、最後はラオデキヤの教会で終わりますが、それぞれの教会が

置かれている状況は様々です。例えば、エペソの教会には、「初めの愛から離れてしまった」

という問題点があり、ペルガモの教会には、「サタンの座があり、悪霊の世界に自分たちの身を

置いている」という問題点がありました。しかし、最終的に記されていることは、「そこから

悔い改めて、『勝利を得る者』となりなさい」ということです。それが黙示録のメッセージ

であり、黙示録が書かれた目的です。そして、先程お読みしました7:9から見て行きますと、

白い衣を身にまとった大勢の群衆が出てきます。彼らは、大きな患難を通って来た人たち、

すなわち、大きな患難の中で命を落として行った殉教者たちのことです。(7:14)彼らは

天に引き上げられ、絶対主との幸いな交わりの中に置かれています。(7:15~17)

ですから、患難時代においては、まさに彼らのような殉教者こそが、「勝利を得る者だ」という

ことが分かります。


(転) では、「患難時代において、殉教することの出来る心」とは、どのような心でしょうか。

それは、
「自意識を横に置き、私たちを贖って下さったイエス様を見上げる心です。」

患難時代では、現実にサタンが私たちに戦いを挑んで来て、私たちに勝つことが許されて

います。(黙12:7)さらに、天変地異などの災いも起こってきます。私たちはその記事を

読むと、「自分は我慢できるだろうか。逃げてしまうのではないだろうか」と不安になります。

それは、弱い自分を抱え込み、弱い自分を充分知っているからです。そして、弱い自分を

知りつつも、「自分が何とかしなければいけない」と思って、自分の力に根拠を持とうと思う

からです。しかし、私たちは罪人であり、自分には頼れない者だからイエス様を信じたはず

なのに、なお弱い自分、ダメな自分を見て、患難時代に勝利しなければならないと思ってしまう

という事は、「私たちを救って下さったイエス・キリストの贖いを受け入れていない」という

ことになり、自分は本物の信者ではないということになってしまいます。すると、「勝利を

得る者」とならないことを、認めることになってしまいます。では、私たちはどうしたら

良いのでしょうか。確かに生まれながらの自分自身は、幼い頃から弱く、何も出来ない自分で

あることは事実ですが、クリスチャンは、その弱い自分を抱え込む必要はありません。

なぜなら、そのような何も出来ない罪人である私たちを救うために、イエス様がこの地上に

来て下さった贖いがあるからです。だから、
私たちは、私たちを贖って下さったイエス様を

見上げることによって初めて、道が開けてくるのです。
それが患難時代での私たちの生き方

です。 すなわち、弱い自分、何も出来ない自分に意識を向けるのではなく、全能主である

イエス様を見上げ、イエス様に意識を向けた時に、「自分は弱い」とか、「何も出来ない」と

いう自分は横に置かれ、
「自分は弱くとも、こんな私をイエス様は救って下さった。だから、

そのイエス様ならお出来になる」
という、イエス様に信頼する心が広がって来るのです。

この心の平安によって、自分の命を委ねようという思いが生まれ、殉教の道が開けてくるの

です。

(結) これから実際に患難時代が始まったら、私たちにとって嫌なことや、恐ろしいことが

次から次へと起こって来ます。すると、つい私たちは不安になり、「自分はもうダメだ」という

中に入りがちです。しかし、その時こそイエス様の方に意識を向け、イエス様を信じ仰ぐことに

よって、自分に向けられていた意識が取り去られ平安が来ます。私たちは、消極的な方向には、

簡単にはまってしまいますが、そこで敢えてイエス様を見上げる習慣を今の内に身に着けて

おくのです。なぜなら、聖書の黙示録には、患難時代に入ったならば、「今から後、主にあって

死ぬ者は幸いである」(黙14:13)と書かれてあるので、主を見上げれば、「それで

いいのだ」と確信できるからです。即ち、主にあって死ぬことが、「死に至るまで忠実であれ」

と言われた、「勝利を得る者」であることが、はっきりと心に入って来るからです。私たちは、

「信じるがゆえに死ぬ」のです。それが、
「悪魔に突きつけるイエス様にあって勝利を得た者」

だからです。だから、ただイエス様を見上げ、イエス様の方に自分の意識を向けることに

よって、「この命は失ってもいいんだ」という気持ちになれるのです。「患難時代において命を

落とす」ということは、イエス様を見上げなければ絶対に出来ません。どうか、
「自意識を横に

置き、イエス様を見上げる」ということを、日常の中で習慣的に実践して行きましょう。


そして、これからやって来る患難時代の中で、勝利を得る者となろうではありませんか。

 

 


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