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2017年1月29日



自分の側から物事を見て行くのではなく、
絶対主の側から物事を見ていく


ルカの福音書18:1~18


(起) ルカ18章7節の「…正しい裁きをして下さらずに、長い間放っておかれることが

あろうか」という御言葉から、「私たちは、自分の側から物事を見て行くのではなく、

絶対主の側から物事を見て行く」ということを、学んで行きたいと思います。


(承)さて、イエス様は、失望せずに常に祈るべきことを教えるために、不正な裁判官の譬えを

話されました。そこで、7節を見ますと、「…正しい裁きをして下さらずに、長い間放って

おかれることがあろうか」とありますので、私たちは、「絶対主は、いつまでも私たちを

放ってはおかれない。必ず私たちの祈りに応えて下さる」と思い励まされます。もちろん、

それは正しいことです。これは、祈り続けるということの譬えとして語られていますから、

その点においては、ここに書いてあるとおりです。しかし、だからといって、「絶対主がいつも

私たちの祈りを聞いて御手を動かして下さるか」というと、そういうことではありません。

絶対主は、私たちがいくら祈っても、「沈黙」されることもあります。しかし、絶対主が

沈黙される時には、それなりの意図があります。すなわち、絶対主の永遠の計画の中で、

「どうしても、今は沈黙していなければならない」という場面もあるからです。例えば、先日、

遠藤周作の「沈黙」という映画が上映されました。その映画の中では、
「クリスチャンが激しい

拷問を受けて苦しんでいるにもかかわらず、絶対主は助けて下さらずに、沈黙しておられた」


という設定がありました。この作品を地上的な見方で考えると、「あんなに苦しい目に

遭っているのに助けて下さらないなんて、絶対主は非情な方だ」と思ってしまいます。しかし、

それを絶対主の側から見たならば、絶対主が沈黙しておられた意図も分かります。

キリシタンたちの中には、踏み絵を踏んだあとで、その度に改心戻しをするという祈りが

ありました。ですから、
絶対主は、彼らが苦しい目に遭って、どうにもならない状況に

なっても、なお従っていこうとする信仰が本当にあるのかないのか?見たかったのです。


だから、彼らが命を閉じるまで、絶対主はそれをじっと見ておられたのです。彼らに対する

絶対主の「沈黙」は、彼らにとっては聖なる取り扱いの一つであったのです。このように、

地上的な人間中心なものの見方と、絶対主のものの見方は違います。普段、私たちがいろいろな

判断をして行く時、自分の側から物事を見て、損得で判断しがちです。しかし、クリスチャンは

絶対主の立場から物事を見て判断して行かなければなりません。この判断が、絶対主の御国に

繋がるかどうかが決まってくるからです。


(転)では、絶対主のお考えを理解して行くためには、どうしたら良いのでしょうか。

それは、まず第一に、日常生活の中で、「自分の考えを引いて、相手の考えを聞く」という

習慣を身に付けていくことです。それは、自分の頭の中であれこれ考えたり、よそ事を考えたり

するのではなく、相手が話そうとしていることをそのまま聞くことです。すると、相手が

どういう趣旨で話そうとしているのかが見えて来ますから、それが分かれば「あっ、そうか」と

受けとめて行くことができます。これは、私たちが罪を犯したり、失敗をしたりし、

怒られたりした時も同じように相手の怒りの言葉をそのまま聞くことです。怒られるという

ことは、必ずその理由がありますから、まず自分の考えを横に置いて、叱ってくれている人の

心を理解し、相手の話の趣旨を理解することです。それをすれば、相手の言わんとすることが

見えてきます。それが見えてくれば、素直に謝ることもできます。私たちは、自分の側から

物事を見ていると、意固地になり、いつも反発するだけで相手を否定して終わってしまいます。

すると、無理矢理我慢して従うことになり、ストレスが溜まっていくだけなのです。これでは、

相手の言わんとする真意も見えず、自分のカイゼン点も見えなくなります。また喜んで主に

仕えていくことも出来なくなります。ですから、まず相手の側から物事を見て、そして自分の

問題点を把握していくことです。すなわち、
これは絶対主の側から物事を見て行く習慣を自分の

身に付けて、絶対主の御国に繋げて行くのか、どうかということになります
。そして第二に、

絶対主の御心を理解するためのもう一つの方法は、御霊さまの声を聞くことです。それが

私たちには出来ますから、絶対主の御心を御霊様の声を聞いて確かめ、遜りの心を培って行く

べきです。絶対主から見て何が善で、何が悪なのか、また、何が御国に繋がることで、何が

御国に繋がらないことなのかを、はっきりと理解していくことが、クリスチャンがこの地上で

生きて行く上で大切なことです。その上で、最後まで絶対主の御心の中に生きて行く者が、

最終的に御国に繋がります。私たちが、いくらこの地上で大きな仕事を成功させたとしても、

それが永遠の御国に繋がるとはいえません。自分勝手な成功は、何の意味もないからです。


(結)ですから、私たちはどこまでも絶対主のお考えを理解し、その中に歩んで行くべきです。

私たちが、どんなに祈っても答えが返って来ないから、「自分で判断し、自分で考えて

行動しなくてはいけない」とか、「本当に絶対主がいるなら、こんな苦しい目には遭わない

だろー」と言って、自分中心な考え方をしてはいけません。
私たちは、たとえどんなに

追い詰められたとしても、どこまでも絶対主の側から見て、御国に繋がる道を選んで行くべき

です
それが、私たちにとって最善なのです。逆に、自分の考えで正しいように見えても、

御国に繋がらないものはすべて最悪です。どうか、自分の側から物事を見て行くのではなく、

絶対主の側から物事を見て行くことを始め出しましょう。これを一つでも二つでも始め出す

なら、「これが主に従う世界なんだ」ということを味わうでしょう。それが分かって初めて、

主の御心を行う者としてスタートさせてもらえるのです。どうか、これを始め出しましょう。

 

 


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