(起)「自分の感情、我を砕いて、100%絶対主に従って行く心」について、学んでいきたい
と思います。
(承) さて、ヨハネの福音書を読んでいく中で印象的なことと言えば、「イエス様は、徹底的に
絶対主に従って行かれたお方である」ということです。特に、今日お読みした5章では、
そのことがよく分かります。5章は、38年間病に苦しんでいた人の癒しについて書かれてい
ますが、イエス様が彼を癒されたのが安息日であったので、そのことに対してユダヤ人たちは
反感を持ちました。そこで、イエス様が繰り返し言われたのは、「安息日に癒すことは、父の
お考えであり、自分の考えで勝手にやったことではない」ということです。
5:19を見ると、「子は父のなさることを見て行う以外に、自分からは何事もすることが
できません。父のなさることであれば、子もすべてそのとおりにするのです」とあるように、
「自分は、父に遣わされ、父の御心を行うため来たのだ」という立場をイエス様はしっかりと
表しておられます。このことから、徹底的に父に従い、従属しているイエス様の姿勢がよく
分かります。
(転) では、私たちはどうでしょうか。イエス様でさえ、そこまでの従属の心を持って
おられたのですから、被造物である私たちは、尚更従属の心を持つべきです。私たちは、
創造主がおられることを知り、私たちの命を司る方がおられることを知りました。それが
分かったら、「私たちは問答無用でその方に従って行くべきだ」となるはずです。ところが
クリスチャンの多くは、創造論を学び、「進化論は間違っている。すべてのものは創造主に
よって造られ、創造主によって存在している」というところは理解します。しかし、「私たちを
造って下さった創造主がいるならば、その方に刃向かうことはできない。従うのが当然だ」
という理解には至らないのです。また、完全に従属することを受け入れようとしないのです。
それはなぜかというと、私たちの内に、「従うことは負けだ」という心が染みついているから
です。今、世の中では民主主義が当然で、民を中心とした政治が行われ、「従う」という精神は
どんどん無くなってきています。逆に、「独立」の心を持つようにと勧められているのです。
私たちはこの世界に生まれ、自律して自分の我を出すことが当たり前となっています。
しかし、絶対主の前にその心は間違っています。私たち人間はどこまでいっても被造物
ですから、絶対主から離れて自律し、自分の考えの中だけでは生きて行くことはできません。
それでもなお、私たちが人間中心、自分中心の心を持ち続け、絶対主に逆らって行くならば、
私たちの行くところは、自ずと定まってきます。悪魔は、絶対主に逆らい、絶対主から
離れて独立しようとしたが故に、落とされたのです。だから、私たちの内にある、「従いたく
ない。自分勝手に思いどおり、気ままにやって行きたい」という思いは、まさに悪魔から来た
ものであり、それは不幸を生むだけです。本来、私たちは聖なる絶対主によって造られ、
「絶対主との交わりの下で生きて行く」という目的で造られたのですから、絶対主に従い、
絶対主に従属して行く生き方こそ、私たちにとって一番幸いな生き方なのです。
(結) ですから、私たちはもう自分流で生きて行くことをやめましょう。私たちは被造物
ですから、100%従って行くのは当然です。いくらクリスチャンであっても、その従う心を
持っていなければ、御国からは遠いのです。なぜなら、従う心のない者は、自分の我、自分の
感情を表して、絶対主に逆らい続けるからです。私たちはそうであってはいけません。
イエス様がどこまでも絶対主に従属し、従って行かれたように、私たちもどこまでも自分の我を
砕いて主に従って行くのです。もし私たちが、この従う心を肯定することができるようになった
なら、私たちの心は平安に包まれるでしょう。
どうか、自分の感情、我を砕いて、100%絶対主に従っていく心を持って行きましょう。
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