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2016年4月24日



重要なのはその人が何者かではなく、
何を成し遂げたかが重要なことだ


マルコの福音書8:29~38



(起)「重要なのは、その人物が何者かではなく、何を成し遂げたかが重要なことだ」という

ことについて、学んでいきたいと思います。


(承) さて、イエス様は弟子たちに対して、「あなた方はわたしを誰だと言いますか」と尋ね

られました。そのとき、ペテロは、絶対主からの示しを受けて、霊的な心で「あなたこそキリスト

です」と、はっきりと告白することができました。 ところが、すぐ後でペテロはイエス様から

叱られ、「サタンよ。引き下がれ」と言われてしまったのです。それは、イエス様が「人の子は

多くの苦しみを受け、長老や、祭司長、律法学者たちに拒絶され、殺される」と話された時、

「なぜメシヤであるキリストが殺されなくてはならないのですか。メシヤが死んでしまったら、

私たちの救い主ではなくなってしまうではありませんか」という思いを持って、イエス様を

諫め始めたからです。つい先程質問をされた時には、絶対主の方に心を向け、絶対主の側から

考えていたはずのペテロが、ここでは人間的な見方をし、しかも完全にイエス様の上に立って

いました。これは実に傲慢な態度です。彼はこの瞬間、罪人である自分自身を棚に上げ、ただ、

ちょっと霊的なことが分かったというだけで、イエス様の事をすべて理解している者の如く、人間

的な考えを押し付けようとしたのです。これは、彼が「何者かのごとく」思ってしまった愚かな

行為だったのです。だから、「サタンよ。引き下がれ。あなたは絶対主の方に心を向けないで、

人の方に心を向けている」と言われてしまいました。


(転) では、私たちはどうでしょうか。私たちもペテロと同じことをやってしまう人間です。

ですから、決して他人事とは、思えません。人間は、いつも人の方に心を向け、
「この世で

何者かであるが如くに、人に認めてもらいたい」
という願望を心の底に持っています。だから、

私たちは無意識のうちに、「何者かであるが如くに自分を錯覚し、褒められる自分」を作り上げて

行こうとしてしまいます。しかし、絶対主の前に生きている私たちにとって、重要なことは、

そんなことではありません。「重要なのは、その人物が何者かではなく、何を成し遂げたか」と

いうことです。例えば、イエス様は、
十字架上で死ぬことによって、人間の罪の贖いをすると

いう、絶対主からの使命を成し遂げられました。
もし、十字架にかかっておられる途中で、天使が

降りて来て、イエス様を十字架から降ろし、周りにいる敵を全部殺してしまったら、イエス様は、

絶対主からの使命を成し遂げたことにはなりません。イエス様が十字架にかかられ、死なれたとき

に初めて「完了した」、「成し遂げた」のです。このイエス様の死こそ、重要だったのです。

「死」という者は、成し遂げたというより、敗北したように受け取られます。しかし、そうでは

ありませんでした。イエス様の「死」こそが、悪魔に対する勝利でした。それは私たちにも言える

ことです。私たちが患難時代に入った時、私たちは殉教して、初めて信仰の道を成し遂げたこと

になります。ですから、ここで言えることは、「これから患難時代に入ったとき、私たちは死んで

もいい」ということです。私たちは、「死ぬことに怯え、死んだら終わりだ。今まで信仰を通して

きたことが無駄になってしまう」と思うかも知れません。しかし、そうではありません。むしろ、

666に対する勝利なのです。
私たちは殉教して初めて「成し遂げた」と言うことができるの

です。
だから、イエス様は「誰でも、わたしについて来たいと思うなら、自分を徹底的に

否定して、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と言われたのです。「自分の十字架

を負って、わたしに従って来なさい」というのは、「『自分の死を背負って行くことです。』

だから、『死んでもいいんだ』という気持ちを持って、従って行くこと」なのです。イエス様

ご自身が、十字架を負い、死を通して使命を成し遂げられました。同じように私たちも、死を

通して、「イエス様に従い通す」という信仰の道を成し遂げるのです。その死は、決して空しくは

なりません。逆に、死ぬことに怯え逃げ始めたら、私たちは信仰の道を成し遂げることはできま

せん。「人間は一度逃げることを覚えると、戦うことが怖くなる」からです。一度逃げた人間は、

負けた時の敗北感を味わうのが嫌で、その後もずっと逃げ続けていきます。しかし、私たちに

とって死ぬことは敗北ではありません。私たちは死を通して、「信仰を成し遂げた」ということを

証し、その後、天に入れていただける望みがあるからです。


(結) ですから、私たちにとって重要なのは「その人物が何者かではなく、何を成し遂げたか」

ということです。イエス様が、死ぬことによって勝利し、絶対主からの使命を成し遂げられた

ように、私たちも、死ぬことによって、信じる信仰を成し遂げて行くのです。私たちが、患難

時代に入ったら、獣によって殺されます。それは、666の数字を打たないからです。しかし

地上では、どこまでいっても罪人ですから、私たちがこの地上で重要人物であるが如く、
自分が

何者かのように認められることが重要なことではなく、
むしろ獣の前で空しく「殺される」

死こそ、「イエス様を信じ通したことの証を成し遂げた」こと
になりますから、このことこそが

重要です。
それが分かったら、「この命は信仰のゆえに、いつでも捨ていいんだ」というところに

焦点を合わせて行けます。そうすれば、 イエス様に従い通す信仰の道を成し遂げて行くことが

出来るでしょう。ですから、「自分が何者かではなく、何を成し遂げたか」が、重要なことだと

知って、自分が認められることではなく、絶対主の御心を成し遂げて行くことに心を向けて行こう

ではありませんか。

 


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