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2016年12月18日



『私たちの感情も意志も知性も、
全的に堕落している罪人である』


第1テサロニケ4:1~8


(起)「私たちの感情も意思も知性も、全的に堕落している罪人である」ということを学んで、

御霊に満たされて行く者となる事を学んで行きたいと思います。


(承) さて、今日お読みした御言葉は、「クリスチャンのすべてが聖潔に至るように」と

勧めがされています。このパウロさんの示す、聖書の全ての道徳的な勧めを、もし拒むならば、

「聖霊をあなた方の心に与えて下さった絶対主を拒むこと」(第Ⅰテサ4:8)となります。

もちろん、クリスチャンなら御言葉を拒むことはしません。しかしながら、このレベルの高い

全ての道徳を私たちが守っているとは、到底言い切れません。しかし、だからといって、

私たちはこの御言葉を無視するわけにもいきません。御言葉というのは、絶対主の言葉であり、

信じたすべてのクリスチャンに語られている内容ですから、私たちもイエスキリストを

信じた者として、この御言葉を味わって行く者でなければなりません。ですから、何とか、

私たちもこの御言葉に近づく者でありたいと思います。そこで、この御言葉を私たち自身が

味わって行くためには、どうしたら良いのでしょうか。それは、そこに入る入口があります

ので、そこから入って行かなければなりません。それは、聖霊の満たしを受けることです。

クリスチャンの歩みの原点は、この聖霊の満たしから始まっています。それは、まず

パウロさんが満たされていたという現実と、聖霊の満たしを受けていた聖徒たちに手紙が書き

送られていたという事実が、聖書を読んで行けば分かります。だから、聖霊の満たしを受ける

ことによって、初めて信じる者の心が現実に理解でき、聖書の御言葉に書いてあるような歩みが

出来るようになるということです。(ガラテヤ5:16)


(転) では、この聖霊の満たしを受けるための入口はどこにあるのでしょうか。それは、

私たちが、「全的に堕落した罪人である」という前提に立つことです。まず私たちが

100%罪人であるということは、聖書もはっきりと語っていることです。ローマ3章

10~12節を見ますと、「義人はいない。一人もいない。・・・」とあります。それなのに、

私たちが罪を指摘されると、すぐごねの中に入るのは何故でしょうか?また、自分自身の過ちを

指摘された時、反発し、文句を言い、自分自身が罪人であることを認めようとしないのは

何故でしょうか。それは、自分の頭の中でいろいろと考え、「私の言い分も分かってほしい」

という思いを持つからです。私たちの教会では、その部分を放棄することをずっと

学んできましたが、なかなか身に付けることが出来ませんでした。その原因はどこにあるのかと

言うと、トマス・アクィナスという哲学者が言った、
「人間の意思は堕落したけれども、

知性は堕落していない」
という考え方が、私たちに染みついているからです。この考え方は、

私たちの生まれながらの無意識の中にあるものです。それは、「もし知性が罪のゆえに

堕落しているなら、学校で学ぶ必要がない。考える知性は正常にあるからこそ学校で学べる

のだ」と考えているからです。しかし、聖書には、人間は100%罪人であり「肉に過ぎない」

全的堕落の中にあると、はっきり示されています。だから、「罪から救われて絶対主の側から

見た正しい学びをしていく必要がある」のです。このように、私たちの知性が堕落していないと

考えることは、絶対に間違っています。その事実は、もとをたどって行けば、創世記3章の

中に、蛇とエバの会話の中に記されています。まず、蛇がエバに向かって、「園にあるどの

木からも取って食べるなと、本当に絶対主が言われたのですか」と、疑問を投げかけています。

するとエバは、その疑問に対して自分の知性で考えました。そこで、蛇は畳みかけて、「園の

中央にある木の実を食べても、決して死ぬことはありません。それを食べると、あなた方の目が

開け、絶対主のように善悪を知る者となるのです」と、偽りの情報をエバに与えました。

本来なら、ここでエバは、自分の知性を正しく働かせて、絶対主のことばに留まるべきでした。

ところが、エバはサタンにそそのかされ、木の実を食べてしまったのです。それは、その心に

「絶対主のようになりたい」という思い上がりがあったからです。そして、
ルシファーと

同じように、「絶対主の如く認められたい」という高慢が、人を知性に頼る方向へ向けたの

です。このことによって、今日はっきりと理解していただきたいことは、私たちが持っている

ものの中で、堕落していない部分は一つもないということです。私たちの能力、知性、意思、

感情、その他全てが堕落しており、罪に汚れているのです。
それが分かったら、私たちが、

正しい判断をして行く為には、いつも絶対主に聞いていくことが必要です。そして、

その絶対主のお考えを、聖書を通して学ぶのです。その時、私たちは、「聖書のこの部分は

正しいけれども、この部分は正しくない」なんてごねてはいけません。私たちの知性は堕落して

いるのですから、私たちは、聖書の御言葉をそのまま信じるのです。「正しい方は絶対主しか

いないのですから、分かりました」と言って、素直に信じることから、正しい知性が身に付いて

行くのです。


(結) そして、その次に必要なことは、御霊の満たしです。なぜなら、私たちの霊の中に

御霊が入って下さって居ても、肉の 思いの方が強く、御霊の思いは肉の思いに抑えられて

しまっているからです。(ガラテヤ5:17) ですから、逆になる必要があります。むしろ

御霊の思いが強くなり、肉の思いが抑えられて、絶対主の考えに同意していく者になる必要が

あります。だからこのために、御霊の満たしが必要なのです。パウロさんたちは、満たしの中に

ある前提で御言葉を語っています。だから、「聖潔に至る考えを拒むものは、絶対主を拒むこと

です」と言えたのです。クリスチャンは、救われた罪人ですから、
「感情も意思も知性も、

全的に堕落している罪人である」
という事実を、完全に認めて下さい。その上で、

救われた者として御霊の満たしを求めて行くのです。私たちは、生まれた時から堕落しており、

その堕落した罪の名残を、今もなお持っているのです。だから、私たちの能力、知性では、

誤った判断しか出来ません。ですから、聖霊の満たしを求めて、「主に信頼せよ。主が

成し遂げて下さる」という 歩みをして行こうではありませんか。このことを皆が理解して、

絶対主の考えに素直に従う者となって、歩みを始め出そうではありませんか。 

 

 


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