人間は根本的に罪人であるため、絶対主に対して下手に出るのは当然なことです。
ましてクリスチャンであるなら、絶対的に罪人であった者がキリストの死によって
贖われ、パラダイスに入れて頂ける恵みを受けた以上、へり下って下手に出ることが、
正しい礼拝の心です。なのに、現実はたとえクリスチャンであっても、下手に出る心を
嫌います。しかし、聖書に示される「ツロの女の遜り」、「百人隊長の謙遜」、「長血
の女の下手に出る心」、「エリコの盲人の遜り」、「ベタニヤのマリヤの香油」、
「罪深い女の香油」などは全て、イエス・キリストへの遜りの心に対する恵みの応答
です。しかし、それに引替え、パリサイ人・律法学者の傲慢は、イエス様に対する反抗
の何ものでもありません。「郷里ナザレの人々の不信仰」、「金持ちの青年の質問」、
「ユダの裏切り」などは、明らかに絶対主の上に立つ高慢な姿です。ですから、聖書を
学べば、絶対主との繋がりは、へり下る心がない限り、交わりは決して生まれません。
たとえ、主の名によって「これ、これした」と主張しても、「わたしはあなたを知ら
ない。わたしから離れ去れ。」(マタイ7:21〜23)と言われてしまいます。
なぜなら、罪人である人間に救いを与えようと考えられた絶対主は、へり下りの原点
に立っておられ、また、その罪人である人間のために命を差し出されたイエス様は、
本物の下手に出ている姿そのものです。
ですから、人間が下手に出る姿勢は、人間として真に「正しい行為であり、良い事
である」と確信して下さい。この世では、人が下手に出ていたら、「バカにされたり」、
「見下されたり」、「寛大な心に付け上がられる」ことばかりです。ですから、
この世では下手に出ることは惨めな人間の現れと受け取られます。しかし、その下手
は肉の下手だからです。ところが、クリスチャンは正しい霊の心で、下手に出るのです。
自分に能力がないから下手に出るのではありません。元々、絶対的な罪人ですから、
絶対主の前に下手に出るのが当然の行為だと知ってするのです。しかし、霊と肉の
ゴチャ混ぜのへり下りは、絶対主に受け入れられません。仮面を被ったへり下りなど
通用しません。「心の伴った下手に出る心こそ」、絶対主と交わりが繋がる入口です。
これが、罪人としての人間が取る「砕かれた、悔いし心」です。この心を世はバカに
しても、絶対主は、決して軽んじられません。絶対主が下手に出て下さる心がなければ、
人間は救われませんでした。これが、ご自分の如く人を創られた(心を与えて下さった)
絶対主の心です。我々人間にとって、一番怖いことは、下手に出る心を失った時です。
傲慢な人間の報いは、ゲヘナの火だからです。
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