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2015年 NO.517




   みょうり
クリスチャン冥利に尽きる』


  
「私たちの主イエス・キリストの絶対主、栄光の父が、絶対主を知るための知恵と啓示の

御霊をあなた方に授けて下さいますように。また、あなた方の心の目がはっきり見えるよう

になって絶対主に召されたことの望みがどんなものであるか、聖徒たちが継ぐべき絶対主

の御国が如何に栄光に富んだものであるか、また絶対主の全能の力が、私たち信じる者

にとって如何に偉大なものであるかを、あなた方が知ることができるようにと祈っています。」
   
(エペソ1:17〜19)


 イエス・キリストの救いに預り、絶対主を知る者となったクリスチャンにとって、

「救い主キリストが、どんなに栄光に富んだ方か。また、絶対主の全能の力が如何に偉大な

ものであるか」
を知ることができたら、どんなにクリスチャン冥利に尽きることでしょうか!!

 ですから、信じる者にとって聖書に書いてあることが「自分たちにも同じようになる」と

期待するのは、行き過ぎでしょうか? 私たちは、聖書に書いてある啓示によって信じた者

ですから、聖書だけが私たちの拠です。その聖書が記している絶対主は、今日でも同じ方

であるはずですから、使徒行伝に書いてあることが今日の私たちの内にも起こると考えるのは、

自然な信仰のあり方であると思います。
それを勝手に神学者たちが、「使徒行伝の出来事は

初代教会の特殊な事情に基づくもので、今日は聖書が完結しているので、同じ事が起こると

考えるのは、狂信者が異端に走る原因だ」とさえ考えているのです。多くの神学者たちは、

聖書を人間の常識で捕らえようとしています。しかし、絶対主の全能の力は、人間の常識を

はるかに超えたもので、かえって人間の常識に留まることは、絶対主の力を人間的に制限する

ことになります。そこで、もし神学者のいない非文明国で、始めて聖書を読んだ人はどう
                                                           よりどころ
考えるのでしょうか? そのまま信じるのではないでしょうか?聖書を拠とするクリスチャン

が、そのまま信じる御言と、信じない御言を選り分ける基準は、どこにあるのでしょうか?

それは、少なくとも、聖書の語る文脈から判断していくことです。

そこで、使徒行伝の内容とパウロの手紙の内容を絶対主の御言として、信じているクリスチャン

なら、時代を超えた共通する真理であると理解するのは、自然な読み方だと思います。

ですから、私たちの教会は、「聖書に書いてあることは、今日も起る」と信じてここまで

来ました。そして今、聖書の記録をそのまま味わうことが可能とされているのです。

ならば、絶対主の全能の力によってバイブルランドが誕生するのを信じるのは、行き過ぎ

ではないはずです。
私たち人間として命を与えられた者が、この全能主の力を見て、

この世を去れるなら、クリスチャン冥利に尽きます。




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