日本キリシタン殉教史を学んで行く時、日本の国で花を咲かせたキリシタンたちの
信仰は、世界に稀に見る残酷非道な拷問によって、その信仰の芽は潰されて行きました。
それは、徳川幕府による踏絵や五人組制度等の厳しい検索制度によって、三代将軍家光
の時代には、キリシタンは絶滅したとさえ思われる程の苛酷な迫害があったからです。
このような時代の中にあって、多くのキリシタン大名や一般のキリシタンは、領地と
名誉と地位を失い、生きながらの火あぶりの刑に合いながらも、信仰を告白して死んで
行ったのです。なのに、どうして絶対主は、信仰の証しを残して行った人々を見殺しに
されたのでしょうか?
これは、キリシタン信仰の敗北、絶対主の権威の敗北とも取れることです。
(遠藤周作の沈黙のテーマ) しかし、絶対主の目から見た時、決してキリシタンの
殉教は敗北ではありません。なぜなら、この日本では、世界中でなされたキリスト教徒
の迫害とは違い、禁令を犯した者への処刑ではなく、転ばせて棄教させるのが目的で
あり、迫害者は狂ったように拷問を加えて行きました。
しかしながら、それでも殉教者たちは、絶対主の為に苦しむことを自ら願い、
「この命を取ることが出来ても、キリシタンとしての命を取ることは出来ない」と
叫んで命を閉じて行きました。この信仰の心を残した者が、絶対主の前に敗北であった
のでしょうか。いいえ。彼らはパラダイスで眠りに付き、聖なる都エルサレムに
入れられるのを待っている人々です。
罪人が罪人の命をこの地上で失ったとしても、魂は新しい体をもらって
永遠の都で生きるのです。絶対主は、初めからこの勝利を用意しておられたので、
キリシタンの苦しみと死が敗北ではなく、どこまでも絶対主に望みを置いた者たちへ
の勝利の報いを与えることの出来た、絶対主の勝利であるからです。この絶対主の
勝利は、悪魔に突き付けたものです。なぜなら、人間を誘惑して罪の中に陥れた
ルシファーに対して、愛すべき被造物である人間を御子によって救いの道を用意し、
罪人である人間が、御子の救いを信じ取ったことによって、永遠の御国に招き入れら
れる絶対主の永遠の計画の実践が成ったからです。ですから、キリシタンの殉教は、
ルシファーの敗北を突き付けることであったからです。私たちは、絶対主の栄光と
勝利を証しするために、こんな罪人の命も用いられることに感謝しましょう。
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