2015年9月27日
(起)無意味な礼拝とは何かを学び、逆に真実な礼拝とは「罪人が罪人であることを認め、
自分から砕いてへり下っていくこと」であるということを、学んでいきたいと思います。
(承) さて、ここを見ると、パリサイ人と律法学者たちが、イエス様のところに来て、
「なぜ、あなたの弟子たちは、先祖たちの言い伝えを破るのですか。彼らはパンを食べる時に、
手を洗っていません」と批判しています。このパリサイ人と律法学者は、当然のように「手を
洗わずにパンを食べたから、この人たちは絶対主の前に正しくない」という論理に立っています。
イエス様は、それを聞いて彼らに言われました。「あなたがたは、口先で私を敬うが、無意味な
礼拝をしている」と指摘されました。それは、「手を洗わずにパンを食べた」ということが、
絶対主の礼拝の妨げになる事ではないからです。確かに、手を洗って食べることは悪いこと
ではありませんし、無駄な細菌をあえて自分の体の中に取り入れる必要はありませんから、
それは、正しい一面です。しかし、絶対主への礼拝は、真心の伴った心が礼拝であり、手を
洗わずに食べたからといって、絶対主への礼拝を妨げている訳ではありません。だから、そこ
まで目くじらを立てる必要はないのです。真理というのは、表の一面もあれば、その裏側の
一面もあるからです。このパリサイ人と律法学者たちは、ただ感情的になって、表面的な義の
一面を主張したに過ぎません。だから、イエス様はそんな彼らを見て、「あなたの心は、わたし
から遠く離れている。表面的な人間の戒めを教え、無意味な礼拝をしている」と、イザヤの言葉
を引用して言われたのです。
(転) では、「無意味な礼拝」ではなく、「真実な礼拝」とは、どのような礼拝でしょうか。
それは、絶対主の心を理解して献げる礼拝です。その「絶対主の心」とは何かと言いますと、
まず私たちが、「罪人が罪人であることを理解すること」です。そして、「自分が罪人である
ことを自覚し、我を砕いて、へり下って従っていくこと」です。では、私たちがその心を持つ
ためにはどうしたら良いのでしょうか。それは、感情ではなく、理屈で物事を理解していくこと
です。感情というのは、「これが正しい」と、自分の肉の思いから出た主張です。パリサイ人と
律法学者たちは、イエス様の前にこの感情を表しました。しかし、その彼らに対して、イエス様
は理屈で教え、「口に入る物はみな、最終的には厠に出されてしまうのだから、人を汚すことは
ない。しかし、口から出て行くものが、人を汚すのです。即ち、殺人、姦淫、淫行、盗み、偽証、
冒涜など、普段、自分の心の中にある思いが言葉となって表われ、それが人を汚すのだ。
だから、手を洗わずにパンを食べたからといって、それが絶対主を汚すことにならない」
(15:17~20)と言われたのです。ここまで、理屈でもってイエス様が説明されたのです
から、パリサイ人と律法学者たちは、「私が間違っていました」と言うべきでしょう。しかし、
彼らは逆に憤慨し、「自分たちは先祖たちの言い伝えに従っているのだ。手を洗わずにパンを
食べるなんて間違っている」と、なお自分たちの感情に立ち反発しました。これを、私たちも
同じようなことをしてしまいます。私たちは、罪を指摘されると、すぐに顔つきが険しくなり、
「なんでそんなことを言うの」という感情的な言い返しをします。そして、弁解を始め、反抗心
を出すのです。あとで考えれば、「自分が間違っていた、自分は罪人だ」ということが分かるか
もしれません。しかし、とっさに感情を言葉に表してしまうのです。これは大きな問題です。
私たちは、その感情を出せば、絶対主に逆らうことになります。ここで感情を表に出す前に、
「相手の言い分も聞いてみよう」と、相手の言っている理屈を心に留めれば、「それはその通り
だな」と理解出来るのです。それが分かれば、たとえ怒られ罪を指摘されても、「その通りです」
と、へり下って行くことができるはずです。絶対主は、そのへり下っている心を良しとして、
受け入れてくださいます。
(結) ですから、私たちは、感情ではなく、聖書に基づく理屈で物事を見て行きましょう。
そうすれば、人から何を言われても、責められても、「罪人だからその通りだ」という、へり
下った心を持って行くことができます。それは、感情が出そうになった時に、ちょっと引けば
出来ることです。私たちは、パリサイ人と律法学者たちのように、感情的になって、如何にも
自分が正しく生きているかのように振舞うのは滑稽です。そんな表面的な義を表して行っても、
罪人が絶対主への真実な心の礼拝とはなりません。口先の無意味な礼拝は、絶対主に嫌われる
ものです。むしろ、私たちは元々罪人ですから、表面的なメンツとか、恥とかというものにこだ
わっていく必要はありません。生まれながらに、絶対的な罪人なら、何を言われてもまずへり
下るのが当たり前です。どうか「罪人は罪人であるという事実を正直に認め、自ら砕いて、へり
下って行きましょう。」これが真実な礼拝ですから。
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