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2015年9月13日


新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れていく


マタイの福音書4:1~11



(起)「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れていく」ということについて、学んでいきたい

と思います。


(承) さて、17節を見ると、「新しいぶどう酒は、古い革袋には入れず、・・・新しいぶどう酒

は、新しい革袋に入れる」とあります。これは、新しいぶどう酒は、醗酵する力が強いので、

古い革袋では裂けてしまうからです。この譬えを今日の私たちに当てはめて行きますと、

「私たちクリスチャンは、イエス様の救いを信じ受け取った者として新しい生き方がある」

ということです。その生き方とは、最近学んでいるように、「内なる人で生きていく生き方」

です。ここで、「内なる人」とは、どういう人かと言いますと、「内なる人」とは、私たちの

霊が存在しているところで、
信じる前にも、内面的な人格として存在しています。しかし、

イエス様を信じた者には、その内面的な処に御霊さまが留まられ、この御霊さまが私たちの

霊に働きかけてくださり、私たちの霊が絶対主と結びつくように助けて下さるのです。

これが、クリスチャンが持つ「内なる人」です。また、外なる人とは、私たちの生まれながら

の思いであり、考えであり、感情であり、知識です。外なる人は、絶対主との関係は一切なく、

この地上的なものの価値観の中で生きている人です。ですから、イエス様を信じる前の人は、

御霊の内住する内なる人の感覚はありません。しかし、信じたクリスチャンの中に御霊の働き

が起こり、全く新しい感覚の中で、考え、生きて行こうと始めます。すると、昔の古い革袋の

ままでは、御霊による新しい感覚を受け止めることが出来ず、外なる人は張り裂けてしまいます。

ですから、「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れていく」ということなのです。

しかし、
人の内面の中に御霊さまが住んでいたとしても、内なる人の声を無視して、今まで通り

外なる人の感覚で生きていくクリスチャンがたくさんいます。

外なる人の生き方とは、外面だけの律法主義であり、
「こうすればいいんでしょ。人前で

通用する生き方さえしていれば問題ないでしょ」と言って、これまで通りの外面ばかり装って

生きていく生き方です。
外なる人は、いつもその一面しか考えません。

それは、新しいぶどう酒を頂いたにもかかわらず、それを古い革袋に入れていることと同じです。

コロサイ書3:9~10では、「・・・あなた方は、古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着なさい」と

あります。多くの人はここを読んで、「外なる人を改善していくこと」と考えていますが、

それは全く違います。
新しいぶどう酒と、古いぶどう酒は、全く別物です。ですから、この御言葉

の本来の意味は、「いくら外なる人を装って、義人振っても意味がない。だから、古い自分は

脱ぎ捨て、全く新しい人(内なる人)の考え方で生きて行きなさい」ということです。

その新しい人とは、
御霊の内住する「内なる人」です





(転) では、そのことについて、マタイの福音書5章で語られた山頂の垂訓の箇所からも

見ていきたいと思います。例えば、「殺すな。殺す者は裁きを受けなければならない」

(5:21)という昔からの律法がありますが、イエス様はその律法について、「わたしは

あなた方に言います。人を殺さなければいいと思っているかもしれないが、兄弟に対して、

理由もなく、『愚か者』とか、『馬鹿者』と言う者は、燃えるゲヘナの中に投げ込まれるのだ」

と言われ、「外側さえ守っていればいいわけではない」という、もう一面を示されたのです。

律法による外側の部分だけではなく、心の部分までイエス様は指摘されました。すなわち、

心の内面的な「内なる人」について指摘しておられるのです。これはものすごく厳しい内容です。

しかし、そのことを通してイエス様が言いたかったことは、「モーセの律法では義とされること

のできなかったすべての事について、信じる者は誰でも、このイエスによって義とされる」

(使徒13:39)ということを伝えるためだったのです。私たちは、絶対主の前にある律法

によって義とされることは不可能です。すなわち、外なる人の、単なる律法主義では義とされ

ません。だから、「イエス様を信じる者は誰でも義とされる」という、このもう一面を用意して

くださったのです。私たちは、イエス様の救いを信じる時、自分自身の内面を見て、罪人であ

ることを示され、「こんな醜い自分はゲヘナだ。こんな自分はダメだ」と思いました。

ところが、その時に与えられた言葉は、「そういう私たちを贖ってくださる救い主がいる。

そのお方は、律法を完全に全うされたから、私たちの罪の身代わりになることができる。

その方が私たちの罪の償いを全部してくださったから、その方を信じるなら救われる」という

ことでした。そんな一面があるということを初めて聞いて、私たちは心が動き、「だったら、

信じたい」と思い、その一面を受け入れたのです。ならば、外なる人で自分の正しさを表して

いこうとする、律法主義な古い生き方はもう止めて行くべきです。それは、新しいぶどう酒を

頂いた者が、古い革袋に入れることになるからです。私たちは、こんな罪人が救われるという

新しい生き方を知ったのですから、その新しい考えの中で生きて行くべきです。

それが、外なる人ではなく、内なる人で生きていく生き方であり、新しい革袋によって生きて

行く生き方です。


(結) 聖書には、「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着なさい。」(コロ3:10)とあります。
新しい人は、「自分は罪人である」ということを知っており、また、「生まれながらに、絶対主の前に怒りの器である」ということも知っています。また、「その外なる人では、見せかけの人生しかない」ことも知っています。だから、生まれながらの外なる人の生き方を捨て、罪人である自分が救われた事実を覚えて、「外なる人を砕き、内なる人による悔いし心」をもって絶対主に従って行くのです。自分が失敗して罪を示された時にも、「あ、そうだ」とへりくだって悟る心を持って行くのです。自分の主張ばかりではなく、「そう言われても当然だ」という、もう一面を理解して行くことです。これが、新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れて行く生き方です。この
ぶどう酒と、革袋は両方とも新しいものです。だから、古い人、古い革袋を用いてはいけません。
クリスチャンなら、この全く新しい生き方を始め出そうではありませんか。



 


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