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2015年1月18日    



捨て身で従っていく決断



 

ルカの福音書14:25~35



(起)「捨て身で従っていく決断」について、学んでいきたいと思います。

(承) さて、まず26節でイエス様は、「誰でも、父、母、子・・・自分の命までも捨てて、

わたしの許に来るのでなければ、わたしの弟子となることはできません」
と言われました。

ところが、私たちの内側では、「父、母を捨てたら、家を追い出されて、生きていけなくなって

しまう」と考えてしまいます。だから、「それはできません」と言って、それを嫌がる心が出て

来ます。ところが、次の御言葉によると、「自分の十字架を負ってわたしについて来なさい。」

とありますから、「その板挟みの心を背負いながら従って行くのだ」と、自分を叱咤激励して

無理矢理決断させて従おうと思ってしまいます。ところが、「自分の十字架を負って」というの

は、実はそういう意味ではありません。ここでは、「自分の命を懸けて従ってきなさい」という

意味で語られています。また33節には、「自分のすべての財産を懸ける覚悟がなければ、

わたしの弟子となることはできません」とありますから、それは、ただ苦しい十字架を負って

従えという意味ではなく、「自分の自由意志のすべてを懸けて、主に従っていかなければ、

わたしの弟子となることはできません」という意味なのです。すなわち、「自分の心の全てを

懸けた捨て身の心で従って来い」ということなのです。実は、キリシタンの人たちは、皆この

捨て身の心を持っていました。この心こそがイエス様の願われる心であり、イエス様こそが自分

の全てを懸けて、地獄へ行くべき私たちを救ってくださったのですから、ここで語られている

メッセージは、「捨て身で従ってこい」と言うことです。

(転) では、私たちはどうすべきでしょうか。私たちは、これまでの長い間、「悔いし砕かれ

た心」について学んできました。しかし、悔いし砕かれた心さえあれば、キリシタンの人たちの

ように、「捨て身で従っていく者」になれるかというと、そういう訳にはいきません。たとえ、

自分が100%罪人であることを認めても、また自分の犯した罪に対して素直に謝っていく

砕かれた心を持っていたとしても、それで献身が始まるというわけではありません。献身は、

「自分なんかにできるかな」と、ビビる気持ちが必ず起こってきます。

それと同時に、「では、捨て身で従って来ないのですね!じゃあ、止めますか? どうするの

ですか?」という御霊さまの声も聞こえてきます。その板挟みの中で、「もうどうなってもいい。

とにかく、自分は主に従って行きたいのだ。」と、決断するのです。
自分を見たら、不安だらけ

になって、決断なんてできるわけがありません。
自分がそれだけの強い信仰を持っているわけ

ではありませんし、何か特別な訓練を受けているわけでもありませんから、自分にとっては

不安材料ばかりです。しかし、「どうするんだ?」という問いかけがあった時に、「できない」

という方向に向かうのではなく、「分かりました」と、絶対主の方に心を向けて行かなければ、

単なる形だけの信仰になってしまいます。「そんな形だけの信仰は嫌」ですから、本気で

決断するのです。これこそが、自分の自由意志を全部懸けた、捨て身の決断ではないでしょうか?

しかし私たちは、決断というと、「できるだけ勢いの良い時に決断すべきだと思い、前向きな

気持ちになったら、決断しょう」と思います。しかも、先が見え、見込みが感じられれば、

決断しやすいと考えます。ところが、もし私たちに勢いが与えられて、先の見込みも与えられて、

前向きな気持ちになって決断をして、そこで成功したならば、その後どうなるでしょうか。

絶対に傲慢になり、「このようにしてきたから、今があるんだ」と誇ります。また、自分の勢い

の中で決断すると、その心が冷えたときには、反対に「本当にできるのか? やった試しがある

のか?」と、必ず揺さぶりが来ます。そうすると、前向きにやっていこうと思って決めた筈なのに、

その決断がだんだん弱くなって、消えて行ってしまことがあります。しかし、「自分は臆病者で、

主に従っていくことなんて出来る訳がない。私にはできません」という最低の状況の中で、

「じゃあ信仰を捨てるのか? それとも、ごちゃ、ごちゃ考えずに、主に全てを懸けて信頼して

行こうとするのか、どちらですか?」と御霊に問われて、
「分りました。自分には何んの根拠も

ありませんが、絶対主の御心に飛び込んでいきます」と決めたその決断は、もう揺さぶりは

ありません。
揺り戻しが来ないのです。なぜなら、自分の力に頼って決めたことではないからです。

「できない」ということが十分分かった上で、その道を選んだのですから、

自分の力を見た決断ではなく、主を見上げた決断だったからです。

(結) 私たちに語られているイエス様のメッセージは、ここにあります。一言で言うならば、

「捨て身で従ってきなさい。その決断を自分に根拠を置いてするのではなく、私を見上げて

しなさい。」とイエス様が仰って下さるのです。皆さん、どうか自分自身の心で決めて下さい。

自分という者の現実をちゃんと見極め、「自分はどうにもならない情けない罪人で、最低の人間だ」

と分かった上で、
強がりで決断するのではなく、「最低の者だからこそ、主にだけ望みを置いて

いきます」と、従う道に無条件で定めて行くのです。
私たちは、このような崖っぷちの中で

決断していくのです。「私はイエス様しかありませんから、私は、身一つで従っていきます。

どうか、よろしくお願いします」と決断しようではありませんか。この決断は、一度だけのもの

ではありません。この決断は、死ぬまでやり続けていくのです。どうか、勝利ある信仰の生涯の

ため、この心をもって始めて行きましょう。
 
 


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