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 2014年9月28日    



肉を砕いて、絶対主と繋がっていく



マタイの福音書14章22~33節


(起)「肉を砕いて、絶対主と繋がっていく」ということについて学んでいきたいと思います。

(承) さて、今日お読みしたところは、「イエス様とペテロが湖の上を歩く」という出来事が

記されているところです。ここを読んでいくと、ある素朴な疑問が生まれます。

それは、「イエス様は肉を持っているのに、どうしてそのようなことができたのか」ということです。

まずは、イエス様について理解していきたいと思います。イエス様は、マリヤを通してお生まれ

になり、確かに罪深い肉を持って生れました。その肉は、罪とは全く関わりのない聖なる肉であった

というわけではなく、私たちが持っている肉と同じものです。そのことはロマ書8:3にも書かれて

います。それなのに、なぜ湖の上を歩くことができたのでしょうか。それは、イエス様は初めから

「絶対主の霊」を持っておられたからです。イエス様は、その絶対主の霊によって、この地の全て

のものをご自身で創造されました。それは、マリヤの肉もしかりです。ですから、その霊によって、

この地も肉体もコントロールしていくこともできます。


だから、イエス様は、ご自分の肉をコントロールでき、湖の上を歩くことができたのです。

絶対主の霊は、被造物の上に立っており、肉の世界に支配されることはありません。


(転) では、次にペテロさんについて見ていきたいと思います。ペテロさんもイエス様と同じ

ように湖の上を歩きましたが、ペテロさん自身には、自分の肉をコントロールしていくだけの力は

ありません。なぜなら、この時点では、彼はまだ贖いを受けておらず、その霊は死んでいる霊

だったからです。すなわち、それはノアの時代の人々と同じ霊です。人間は、絶対主に逆らうこと

を通して、絶対主のお考えを理解する心を切ってしまいました。でも、ペテロさんは
絶対主の霊を

持っておられるイエス様を仰ぎ、イエス様に心を繋げよう
としました。そして、「来なさい」と

言われるまま従い、イエス様に肉体をコントロールされて、湖の上を歩くことができたのです。

しかし、風を見た途端、この世界さえもコントロールしていかれるイエス様の力よりも、自分自身

の「怖い、溺れる」という肉の思いを見て、その心に捕われてしまい、湖に沈んでしまったのです。

ですから、ここで分かることは、自分の肉に目を向けて行ったら出来ることも出来なくなってしまう

ということです。だから、クリスチャンは、絶対主とイエス様に繋がっていく心が大切だという

ことです。

  私たちは元々、アダムとエバの犯した罪の性質を受け継いでおり、絶対主との繋がりが切れて

いた者でした。しかし、そこをイエス様がなんとか修復しようと、一番最初人間であるアダムと

エバから出た罪の責任を取って下さり、そのおかげで、私たちはもう一度絶対主との繋がりを回復

させていただいたのです。ですから、せっかく結ばれたこの絶対主との繋がりを断ち切ろうとする、

私たちの地上的な肉の思いや、反発する心などは、いつも砕いていかなければなりません。

確かに、私たちの肉の思いというのは、変えようと思っても変えられませんし、完璧に取り去ること

もできません。それは死ぬまで付き合っていかなければ成りません。だから、常に自分の肉を砕き、

心の中に絶対主の思いを入れ、絶対主の影響力を受けているならば、反発したり、傲慢になることは

ないと思います。イエス様は、私たちと同じ罪深い肉をお持ちであったにもかかわらず、霊は絶対主

の霊を持っておられましたので、いつも絶対主の考えの中で歩んで行かれたのです。

私たちも、そのイエス様の心を受け継いでいくべきではないでしょうか。私たちは教会から離れると、

すぐに肉の世界に入っていってしまい、地上的なものの見方や考え方をしてしまいがちです。 

しかし、そんな中にあっても、常に絶対主の目で物事を見て考え、事を行っていくべきです。


(結) 私たちは、
この地上の命を終えた時、肉から解放され、絶対主と繋がった「霊」として

天に上げられます。
 その時には、もう罪の影響は全く無く、新しい霊に見合った新しい身体

いただいて、御国に入れていただけるのです。そこに入れられるまでは肉を持っていますので、

私たちはこの肉をできる限り砕いていくべきです。それが、絶対主との繋がりを保っていく道です。

この後、聖霊のバプテスマを受けたなら、「絶対主と繋がりのある心は、もっと強く感じることに

なるでしょう。」又「その思いを大切にしよう」とする気持ちが今以上に強くなり、心の中に

いっぱいに充満していくでしょう。そうなれば、私たちは「この罪人の体さえ、絶対主のために

使っていただきたい」という強い思いが出てくるのではないでしょうか。
この地上にあって、

この体を絶対主に使っていただける
ということほど、私たちにとって感謝なことはありません。

ですから、
私たちは自分の肉を砕き、最後まで、絶対主との繋がりの中にあって生きて行きましょう。  

 
 
                                                         



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