使徒の働き19章21~22節
(起)パウロさんの心を持つために、自分の肉から離れていくことを学んでいきたいと思います。
(承) さて、ここでパウロさんは、御霊によってエルサレムに戻る決心をしました。
そして、「そこに行った後で、ローマも見なければならない」と言っています。彼はそれが絶対主
の御心であるということが分かっていました。そして、その御心には、多くの苦難に遭遇するという
ことも、彼は悟っていました。だから、周りの人たちがしきりに引き留め反対しても、彼はそれを
振り切って、エルサレムに向かったのです。カイザリヤでは、その土地の人たちだけではなく、
一緒に同行していたルカさんたちも、「行けば大変な目に遭うことは分かっているので、わざわざ
行く必要はないのではないですか」と、忠告しています。(21:12)しかしパウロさんは、
「どうしてあなた方は、私の心を挫くのですか。私は、エルサレムで死ぬことさえも覚悟している
のです」(21:13)と言って、エルサレムに向かって行ったのです。
私たちはここを読むと、「何が何でもやるんだ。絶対主の御心がなるなら、この身はどうなっても
いい」という、彼の強い心意気が伝わってきます。実は、この心意気こそが私たちに必要な
ものです。なぜなら、これから私たちは、患難時代に向かって伝道の働きをして行き、そこで殉教
していく者たちだからです。私たちは今、「絶対主の御心が分かった以上、どんなことがあっても
それを実現したい」という絶対主に対する精神を、パウロさんから学び、自分のものとして行き
たいと思います。
(転) では、そのパウロさんの心を持つために、必要なことは何でしょうか。それは、絶対主
の心を汲むことです。絶対主の心を汲むことによって初めて、「何が何でもそれを実現するぞ!」
という気持ちが起こって来ます。では、どうすれば私たちは絶対主の心を汲むことができる
でしょうか。それは、まず、言われた通りすることです。それは、地上の指導者である牧師の
言われた通りして初めて、「あぁ、これが絶対主の考え、絶対主の御心なんだ」と分かってきます。
そのようにして、一つ一つ絶対主の心を汲んで行くのです。それなのに、その通りしないとすれば、
私たちの肉が「そんなのできない」と反発しているからです。私たちが持っている肉というのは、
基本的に自分の損得や、自分のやりたいことに心が動きます。ですから、自分が損をしないように
心を使い、自分の思いを通すことを考えます。この罪深い人間の肉を持っている私たちは、自分の
損得しか考えず、「自分のやれることしかやらない」という自分勝手な思いを持ち、言われた通り
しようとしないのです。私たちが絶対主の御心を理解するためには、まず、「言われた通りに
やっていこう」という、素直な心が必要です。言われた通りのことをやってみて初めて、そこから
一つ一つ階段を上っていくことができるのです。私たちが自分の肉に捕われていては、絶対主の心
を汲むことはできません。パウロさんは、この肉から離れたのです。
だからこそ、「私は、主イエスの御名のために縛られるだけでなく、エルサレムで死ぬことさえも
覚悟しているのです」(21:13)と言ったのです。
(結) ですから、私たちは、絶対主の心を汲んでいくために妨げていた自分自身の肉から、
離れて行きましょう。これから、私たちは患難時代に突入していきます。私たちはその中で、
使徒行伝という書物を閉じる最後の働きをするのです。どういうことかというと、使徒行伝という
のは、実は中途半端なところで終わっていますから、今もなお書かれ続けていると言えます。
聖霊の働きも、ペテロさんたちの時代から始まって、今日までずっと続いているのです。使徒行伝
はまだ終わっていません。これから後、患難時代が来て、最後の働きを終えたあと、使徒行伝は
終わります。その最後の働きをするのが、私たちです。この小さな教会が、そのために任命されて
いるのです。それが絶対主の意向であると分かったのなら、私たちもパウロさんたちと同じ心を
持ち、患難時代に向かって伝道の働きをしていく心構えが必要なのではないでしょうか。
これからの私たちは、絶対主の心を汲んでいくと同時に、パウロさんのように、生涯、自分の
走るべき行程を走り尽くしていくのです。この心を、私たち一人一人が持って、これからの働き
に使って頂きましょう。もう自分の肉から離れ、パウロさんの心を自分の心として行くのです。
これが、使徒行伝の最後の働きをする、教会に与えられたメッセージです。 |
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