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 2013年6月30日 




100%の自由意志を使って、絶対主に従う




第Tヨハネ2:15〜29




(起) 100%の自由意志を使って、絶対主に従う」ということを学んでいきたいと思います。

(承) さて、私たちの教会では、「創造主」を「絶対主」に変えて通読をし始めましたが、感想を

聞いてみると、「甘えがなくなる」という感想がありました。確かにその通りで、私たちの信仰の

在り方は、実に生ぬるく、絶対主に対する甘えがあると思います。そして、その姿勢は、「責任を

負いたくない」という思いから出ています。しかし、考えてみて下さい。今はどういう時代

でしょうか。18節にもはっきり書いてあるとおり、終わりの時代です。そんな時に悠長なことは

言っておられません。獣につき従うのか、死に至るまで絶対主に忠実に従っていくのか、

皆自分自身の信仰をはっきりさせなければならないのです。しかし、そんな中にあるにも関わらず、

「イエス様がおいでになっても、自分たちは患難時代の前に天に引き上げられるのだから、

信仰さえ持っていればそれでいいだろう」と考えている、おめでたい人たちが多くいるのです。

主を信じた以後の信仰生活においても、同じように考えて「イエスキリストが、私たちの罪の

身代わりとなって死んで下さり、私たちはその恵みによって救われた」のだから、罪人の自分たちは、

「自分で責任を負わなくてもいいんだ」と思い、救いを頂いた以後も、責任を負わなくてもいい

人生が送れると思って信仰生活を続けている、おめでたい人たちがいます。

ただ自分は弱いからと言って、自分に与えられた自由意志をただ自分の放縦のために使い続けて

いるのです。


(転) では、本当に私たちには何の責任もないのでしょうか。

そうではありません。私たちは、イエスキリストの贖いを受けたことによって、今まで完璧に

断絶していた、絶対主との交わりの入口が開かれました。確かに、このことに関しては、私たちは

一切責任を負っておらず、全部絶対主の愛です。
しかしそれ以後、その方に従っていくかどうかは、

全部私たちにかかっています。
私たちは、その責任を負わなければなりません。

そこで、生まれながら持っている100%の自由意志を、どのように使って絶対主に従っていく道を

選択するかは、そのクリスチャン自身の意志にかかっています。逃げようと思えば逃げることも

できますが、最後に行くところは、その人の選択です。信じれば、何をやっても天国だとは、

聖書に書いてありません。当然地獄のさばきもあります。(ヘブル6:4〜8,10:26〜31)

また、永遠の聖なる都です。(黙21:7)従って、聖書には、「永遠の死に至る罪もある」と書いて

あるとおり、(516)「自分は、絶対主に従っていくことはできないけれども、イエス様は信じて

いるから、天に入れていただければそれで良いです」と言う人がいますが、そのような者が天に

入れると思ったら大間違いです。そこが、甘いということです。絶対主の前にあって、そんな甘えは

効きません。絶対主の前には、弁解も、言い訳も、自分勝手な考えも、通用しません。

私たちは従うだけです。この絶対主との関係が回復されて、その中に入っていくために、イエス様の

救いがあります。だから、もし絶対主との関係が切れたら、地獄です。口先だけで、主よ、主よ、

信じています。と言っても、「わたしはあなたを知らない」と言われてしまいます。このように、

福音とは死ぬか、生きるかのことであり、悠長なことを言っている時間はないのです。これからの

私たちの伝道は、これしかありません。ですから、全てのクリスチャンが皆伝道者になって、

イエス様を大胆に宣べ伝えていくべきだと思います。
私たちが意識することは、絶対主の御心を

いつも考え、その御心の中に生きていこうとすることです。私たちは力を受け、その中に生きて

いくのです。自分のために生きる者はありません。皆、死んで甦った方のために生きるのです。


(Uコリ5:15,ロマ14:7〜8)ここに焦点を合わせましょう。このスタートラインに立つ

ために、これまでの20年間がありました。私たちは、すぐに自分の感情を見て考え、自由意志を

自分のために使って、反抗したり逃げたりしますが、私たちの不従順の言い訳は、一つも理由には

成りません。絶対主がいらっしゃることは、私たちの体を見れば一目瞭然です。その絶対主がいる

のであれば、従っていくのは当然だからです。

(結) ですから、自分の肉の思いは全部砕き、空っぽにするべきです。そして、単純に、絶対主の

国と絶対主の義を追い求めていくべきです。これが、人間100%の自由意志を持つ者として

造られた目的です。

私たちが、絶対主に仕える喜びを味わわずに死んだら、生まれた意味がありません。この世のものは、

すべて置いていくのです。ですから、絶対主にあって生きなければ意味がありません。私たちは、

これから、私たちは世界に遣わされていくのです。また、私たちは殉教していった初代教会

の人たちのように、信じると言うことは、死を意味することを覚悟しなければなりません。

それは、殉教覚悟でイエス様のために生きていくということです。殉教は、初代教会の人だけではなく、

終りの世で生きている私たちも同じです。何故私たちだけが、艱難時代を通らないと言えるの

でしょうか?そのように根拠もないことを信じているクリスチャンは、おめでたい人々です。

私たちにとって、従うということは当たり前のことです。
私たちが生きていく道は、真心から、

絶対主一本で生きていく道です。
心を合わせて、主の働きに用いていただきましょう。




                                      

  
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