『100%の自由意志を使って、絶対主に従う』
第Tヨハネ2:15〜29
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(起) 「100%の自由意志を使って、絶対主に従う」ということを学んでいきたいと思います。
(承) さて、私たちの教会では、「創造主」を「絶対主」に変えて通読をし始めましたが、感想を
聞いてみると、「甘えがなくなる」という感想がありました。確かにその通りで、私たちの信仰の
在り方は、実に生ぬるく、絶対主に対する甘えがあると思います。そして、その姿勢は、「責任を
負いたくない」という思いから出ています。しかし、考えてみて下さい。今はどういう時代
でしょうか。18節にもはっきり書いてあるとおり、終わりの時代です。そんな時に悠長なことは
言っておられません。獣につき従うのか、死に至るまで絶対主に忠実に従っていくのか、
皆自分自身の信仰をはっきりさせなければならないのです。しかし、そんな中にあるにも関わらず、
「イエス様がおいでになっても、自分たちは患難時代の前に天に引き上げられるのだから、
信仰さえ持っていればそれでいいだろう」と考えている、おめでたい人たちが多くいるのです。
主を信じた以後の信仰生活においても、同じように考えて「イエスキリストが、私たちの罪の
身代わりとなって死んで下さり、私たちはその恵みによって救われた」のだから、罪人の自分たちは、
「自分で責任を負わなくてもいいんだ」と思い、救いを頂いた以後も、責任を負わなくてもいい
人生が送れると思って信仰生活を続けている、おめでたい人たちがいます。
ただ自分は弱いからと言って、自分に与えられた自由意志をただ自分の放縦のために使い続けて
いるのです。
(転) では、本当に私たちには何の責任もないのでしょうか。
そうではありません。私たちは、イエスキリストの贖いを受けたことによって、今まで完璧に
断絶していた、絶対主との交わりの入口が開かれました。確かに、このことに関しては、私たちは
一切責任を負っておらず、全部絶対主の愛です。しかしそれ以後、その方に従っていくかどうかは、
全部私たちにかかっています。私たちは、その責任を負わなければなりません。
そこで、生まれながら持っている100%の自由意志を、どのように使って絶対主に従っていく道を
選択するかは、そのクリスチャン自身の意志にかかっています。逃げようと思えば逃げることも
できますが、最後に行くところは、その人の選択です。信じれば、何をやっても天国だとは、
聖書に書いてありません。当然地獄のさばきもあります。(ヘブル6:4〜8,10:26〜31)
また、永遠の聖なる都です。(黙21:7)従って、聖書には、「永遠の死に至る罪もある」と書いて
あるとおり、(5:16)「自分は、絶対主に従っていくことはできないけれども、イエス様は信じて
いるから、天に入れていただければそれで良いです」と言う人がいますが、そのような者が天に
入れると思ったら大間違いです。そこが、甘いということです。絶対主の前にあって、そんな甘えは
効きません。絶対主の前には、弁解も、言い訳も、自分勝手な考えも、通用しません。
私たちは従うだけです。この絶対主との関係が回復されて、その中に入っていくために、イエス様の
救いがあります。だから、もし絶対主との関係が切れたら、地獄です。口先だけで、主よ、主よ、
信じています。と言っても、「わたしはあなたを知らない」と言われてしまいます。このように、
福音とは死ぬか、生きるかのことであり、悠長なことを言っている時間はないのです。これからの
私たちの伝道は、これしかありません。ですから、全てのクリスチャンが皆伝道者になって、
イエス様を大胆に宣べ伝えていくべきだと思います。私たちが意識することは、絶対主の御心を
いつも考え、その御心の中に生きていこうとすることです。私たちは力を受け、その中に生きて
いくのです。自分のために生きる者はありません。皆、死んで甦った方のために生きるのです。
(Uコリ5:15,ロマ14:7〜8)ここに焦点を合わせましょう。このスタートラインに立つ
ために、これまでの20年間がありました。私たちは、すぐに自分の感情を見て考え、自由意志を
自分のために使って、反抗したり逃げたりしますが、私たちの不従順の言い訳は、一つも理由には
成りません。絶対主がいらっしゃることは、私たちの体を見れば一目瞭然です。その絶対主がいる
のであれば、従っていくのは当然だからです。
(結) ですから、自分の肉の思いは全部砕き、空っぽにするべきです。そして、単純に、絶対主の
国と絶対主の義を追い求めていくべきです。これが、人間100%の自由意志を持つ者として
造られた目的です。
私たちが、絶対主に仕える喜びを味わわずに死んだら、生まれた意味がありません。この世のものは、
すべて置いていくのです。ですから、絶対主にあって生きなければ意味がありません。私たちは、
これから、私たちは世界に遣わされていくのです。また、私たちは殉教していった初代教会
の人たちのように、信じると言うことは、死を意味することを覚悟しなければなりません。
それは、殉教覚悟でイエス様のために生きていくということです。殉教は、初代教会の人だけではなく、
終りの世で生きている私たちも同じです。何故私たちだけが、艱難時代を通らないと言えるの
でしょうか?そのように根拠もないことを信じているクリスチャンは、おめでたい人々です。
私たちにとって、従うということは当たり前のことです。私たちが生きていく道は、真心から、
絶対主一本で生きていく道です。心を合わせて、主の働きに用いていただきましょう。 |
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