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 2013年10月27日 





『絶対主に聞き従う』



使徒41322




(起)「人に聞き従うのではなく、絶対主に聞き従う」ということを、学んでいきたいと思います。

(承) さて、使徒行伝を読んでいくと、彼らは純粋に、大胆な信仰に立って妥協せずに生きて

いる、ということが分かります。しかし、使徒行伝で語られる前の福音書に出てくるペテロさんは、

どうであったでしょうか。確かに、彼は自分の信念を力強く通して行こうとする人でした。

彼は、「たとえ死ぬことがあっても、私は、あなたに従っていきます」と断言し、その強い正義感は

見上げたものでした。ところが、その後で、三度も イエス様の事を「知りません」と言って、

イエス様を裏切ってしまったのです。イエス様が捕えられてしまい、「
こんな筈ではないじゃない

イエス様は王となる筈のお方なのに、なぜ、こんな簡単に捕えられてしまうのだ?

このまま十字架につけられてしまうのか?」と思った瞬間、「自分はこの人の仲間ではない」

という気持ちを表わしてしまったのです。私はここを読んでいく時、「人間は、いくら正義感を

働かせても、結局はこのように潰れていくんだ。一途にやっていくことなんて、できっこないんだ」

と思い、がっかりしました。しかし、使徒行伝になると、その彼が、急に毅然とした生き方を

始めるのです。それは、どうしてでしょうか? 

実は、彼が聖霊のバプテスマによって力を受けたからです。これは、凄いことです。

卑怯なペテロさんが、がらっと変わったんです。ならば、
私たちも同じように力を受けて、

力強い働きを始めて行きたいものです。
果たして、それは可能なのでしょうか?それは、可能です。

なぜなら、
終りの時代には、皆、聖霊のバプテスマを受けるからです。私たちは、いろんな

場所の殉教者の方たちから、「ここに来て、純粋な福音を語って下さい」と言われています。

ですから、そこへ行って、真実な混ぜ物のない福音と心を伝えていかねば成りません。


(転) では、私たちは純粋な福音をどのように伝え、また、クリスチャンをどのように

育てていけば良いのでしょうか。殉教者たちが求めていることは、
「混ぜ物のない真実な心で、

イエス様を信じる人たちを起こして行って欲しい」
ということでした。すると、そこへ行き、

その場所に留まって、本気でやらなくてはなりません。となると、春日井での働きが、難しく

なってしまいます。ところが、この間、小牧で出会った殉教者は、実は1回しか福音を聞いて

いないにもかかわらず、心が動かされて信じ、救われた人でした。そして、その心を周りの人たち

に伝えて行ったところ、周りの人たちもイエス様を信じ、救われる人がたくさん起こされて行った

と言うのです。いったい、何故そのようなことが起こったのかというと、
彼らも聖霊の力を受けて

いたからです。それが、これからの時代にも起こってくるということです。
私たちの町では、

10万人教会という、とてつもないことが始まるわけですが、これは普通なら考えられない

ことです。しかし、私たちが聖霊の力を受ければできるのです。2:47を見ると、
「救われる

人々を毎日教会に加え続けて下さった」
とあります。福音を聞いた者たちが皆、聖霊によって

心が溶かされ、壁が砕かれて、イエス様を信じるのです。そして、さらに奇跡が起こったら、

大勢の人々が群がって来る可能性が十分あるでしょう。10万人教会というのは、決して夢物語

ではありません。
私たちは、「聖書に書いてあることは、今日も成る」ということを、この目で

見るようになるのです。


(結) ですから、19節にあるように、私たちは、これから、
「人に聞き従うのではなく、

絶対主に聞き従っていく」
という、この道を貫いていけば良いのです。私は、この教会がこれから

前に進んでいくためには、
砕かれた心の一致が絶対に必要だと思います。なぜなら、それを通して

いく為、信仰の妥協は、決してしてはいけないからです。なぜ妥協しないかというと、
絶対主の

言葉にそのまま従って行きたいからです。
私たちにとっての混ぜものとは、自分が責められて損

をすると思うと、すぐに計算し
自分を守ろうとする我です。それは、絶対主の御心よりも、

自分の考えの混ぜものを入れて妥協することになります。
これは、絶対にいけません。しかし、

日本のキリシタンの殉教者たちは、損得を超えてイエス様を選んでいった人々です。

「命を取られてまで、外国の信仰に留まる必要はない」と言って信仰を捨てれば助かったのです

が、彼らはそれをしませんでした。逆に、「私たちの命がお入り用なのですね。どうぞ存分に

お使い下さいませ」と言って、自分自身の命を差し出していかれたのです。私たちもそうしたいと

思いませんか? 損得を考える原因は、人を見ているからです。しかし、
私たちは人に聞き従う

のではなく、絶対主に聞き従っていくのです。殉教者達は、「イエス様、あなた様は私たちの

命が、お入りようなのですね。どうぞ使ってくださいませ。
 存分にお使い下さいませ。」
と、

この体、
この命を、イエス様のために使って下さい、という心を表して、キリストを信じている

本気の心を証しして行きました。ですから、私たちも、絶対主に聞き従う信仰の証しを立てて

行こうではありませんか。




                                      

  
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