『人徳がある人も、創造主の裁きに会うのでしょうか?』
人の目から見ると、「高潔な人生を送った人が、創造主を信じるに至らなかったために、
ヒットラーのような人物と同じ永遠の刑罰を受ける」というなら、公平さに欠けるという
反感が起ってきます。このような疑問に対して、哲学博士のモーランド氏が答えます。
毎日の生活の中で、数千もの選択をする自由を人間は与えられています。
だから、自らの選択によって決めたことは、他人の所為にすることはできません。
すなわち、選択の自由の権利を持っている以上、当然、責任も 負わされます。「権利には、
義務も伴う。」のです。ですから、人の選択の結果を人間は刈り取ることになります。
その場合、良い選択の数と、悪い選択の数が問題にされます。
しかし、その良い選択と、悪い選択の判断の基礎は、どこにあるのでしょうか?
私たちが、創造主の裁きに合うという前提の場合、その良い選択と悪い選択は、創造主の
目から見た価値観です。それは、人間の感情や気持ちに合っているかどうかではなく、
創造主が大切に思う美徳を選ぶかどうかです。それは、創造主の臨在を認め、創造主の喜ぶ
選択をすることです。人の価値観による人徳は関係ありません。なぜなら、私たちは、偶然の
積み重ねから出てきた命ではなく、創り主の計り知れない知恵による手によって組み立て
られた創造主による命だからです。そうでなければ、驚くべき人間の内臓のしくみの自動制御
は、絶対に存在しなかったはずです。
ですから、自らを宇宙の中心に置いて、判断している人徳も、創造主の美徳にかけ離れたもの
なのです。
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「人間は選択の自由の権利を与えられている」
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