@ 「義人は主を信じ仰ぐ心によって生きる」(11節。創造主訳)と言う、御言葉から、
御霊によって歩むクリスチャンの生き方を学んでいきたいと思います。
A さて、ルターは、この御言によって目が開かれ、ローマカトリック教会の間違いにハッキリと
気づき、プロテスト(抗議)して宗教改革を始めました。当時の世界は、まだ各自が聖書を読む
ことが出来なかった時代で、「免罪符を買うなら救われる」と言われると、そうだと思い、
「十字軍に加わって戦うことが、免罪符の代わりとなる」と言われれば、そうかと思って十字軍に
従軍していました。それは、カトリック教会が語ることが聖書の御言であり創造主の御心だと
信じていたからです。
しかしルターによって、救いは「キリストを信じる信仰によるのだ」ということが明らかにされ、
また、印刷機の発明によって人々の手に聖書が届くようになると、御言に立った信仰が一気に
加速されていきました。
B では、ガラテヤの教会に起こった信仰の変節と、それに対するパウロの反論について見て
いきましょう。異邦人の教会であるガラテヤの教会は、「律法の行いによらず、キリストを信じる
信仰によって義とされる」ことを喜んで受け入れた教会でした。ところが、律法によって訓育されて
きたユダヤ人クリスチャンたちが入って来る事によって、その影響を受けるようになっていった
のです。それは、ユダヤ人たちが、子供の頃から教えられてきた律法を、クリスチャンになれば、
みな守るべきだと考えたからです。それに対してパウロは言います。「あなた方が御霊を受けた
のは律法を行ったからですか。それとも聞いて信じたからですか。『アブラハムは創造主を信じた。
それによって、彼は義と認められた。』と書いてあるのです。
ですから、『主を信じる者が、信仰の人アブラハムと共に、祝福を受けるのです。律法の行ない
による者は、律法によって生きるのであり、行わない者は皆呪われるのです。ああ物分りの悪い
ガラテヤ人よ。御霊で始まったあなた方が、今になって肉の力で仕上げるというのか。』」と。
律法の意味は、救い主に人々を導くための養育係に過ぎませんでした。
だから、救い主イエス・キリストは十字架によって、律法を廃棄されたのです。ですから私たちは、
律法によらず、主を信じ仰ぐ心によって生きていけばいいのです。それは、御霊によって歩む
生き方です。御霊によって歩むとは、霊的な心で、霊的な判断で生きていくことです。
しかし、私たちは、救われた者でも肉を持っており、この古い人とは、この体が贖われるまで付き
合わなければなりません。しかしながら、もはや信者は肉に従って歩む責任はなく、古い人の
生き方の判断に従って生きる必要はありません。キリストの御霊によって頂いた霊的な判断で生きて
行けばいいのです。これこそが、肉の言いなりにならないクリスチャンの宗教改革です。
C ところが、カトリック教会が今日も存在するように、この古い肉がまだ存在するために
やっかいなのです。その古い性質にいつも悪魔は働きかけ、霊で始まったクリスチャンに、
なお肉の思いを入れ、肉に従って歩ませようとするからです。ですから、この悪魔の妨げを
退けていかなければなりません。それゆえに、クリスチャンの戦いは血肉の戦いではなく、
もろもろの悪霊との戦いだと言われているのです。私たちの肉は、子供の頃から付き合ってきました
ので、肉に聞いて肉で判断するのは当然と考えていました。しかし、この肉に働く悪霊が、
クリスチャン生活を妨げるのだと分かれば、イエス・キリストの名によって退けていかなければ、
御霊によって歩むことが出来ません。そして、肉を砕いて霊の中に入り、キリストを着ていく
のです。私たちがキリストの制服を着れば、悪魔はその服を見て服従します。そして妨げが
取り除かれ、御霊に導かれて生きて行くことができるのです。これが、「義人は主を信じ仰ぐ心に
よって生きる」ということなのです。 |