『堅く信仰に立った祈りと自立心を主に明け渡す心』
マタイ9章27〜31節
@ 今朝は、二つの事柄を学びたいと思います。
先ず一つ目は、29節で「あなた方の信仰のとおりになれ。」と言われたイエス様のお言葉の
意味を理解すること。
二つ目は、イエス様が、「誰にも知られないようにと厳しく戒められたにもかかわらず、二人の
盲人はイエス様のことを言い広めた」、という事についてです。
A さて、二人の盲人は、「ダビデの子よ。私たちを憐れんでください。」と叫び続けながら
イエス様について行きました。彼らは、イエス様が病を癒せるお方だと聞いて、助けて頂きたい
一心でイエス様に叫び続けたのです。ところが、イエス様は「私にそんなことが出来ると
信じるのか」と問い返されました。彼らは、自分たちを助けてくれるはずだと100%信じて
叫んでいたので、主があえて「わたしにできると信じるか。」と問いかける必要はなかった
はずです。案の定、盲人には、「あなたの信仰の通りなれ。」と言われ、癒されました。
ですから、この問いかけは、盲人に対してというより、彼等の回りにいる群衆に対しての問いかけ
でした。回りにいる烏合の衆は、「そんなこと出来るのか?」と疑いの目で見ていたからです。
それでは、私たちの場合は、どちらの側に立っている信仰者でしょうか?
イエス様は、いつも「堅く信仰に立っていなさい。」といわれます。
私たちは祈るとき、「本当に聞かれるのかな?」と思いながら祈っていないでしょうか。
半信半疑の信仰ではダメなのです。もし盲人たちが、「盲目で生まれたのは、親の罪の報いだ。
何故自分が盲目にならなければならないのか。罪人が叫んでも聞いてもらえるはずはない・・・」
と反発と疑いをもって叫んでいたとしたらどうでしょう。「私にそれができると信じるか。」と
言われたとき、彼らは、「ハイ主よ。信じます。」とすぐに確信を持って言えたでしょうか。
私たち日本人は、「わたしのような者が祈ったって聞いてもらえないよな。」と控えめに
思うことが美徳であるかのように考えていますが、それは大間違いです。そのように思ってしまう
原因は、自分の中に後ろめたさがあるからです。また、自分の罪の許しを確信できないで
いるからです。だから信仰の心が弱く、祈りも弱いのです。さらに悪魔は畳みかけてきます。
「困ったときだけ祈って、聞いてもらえると思うのか?」と。それ故に、ますます確信を失い、
群衆と同じように冷めた心で、日和見根性に立っているのです。
実に信仰の当事者になりきっていないのです。しかし、私たちが祈っているのは、全能なる
創造主に対してです。この方が「出来ない。」と思うことは、聖霊を汚すことです。
だから、堅く信仰に立って、「主よ。あなたはお出来になります。癒してください。」と強く
宣言するように祈ることです。
B では次のテーマに、学びを移します。
主が盲人達に「誰にも知られないように気をつけなさい。」と言われたにもかかわらず、
盲人たちは、イエス様のことを言い広めました。彼らは言われたことの意味を考えようともせず、
証することは良いことだと勝手に決めつけたのです。
しかしイエス様は、癒しなどのパフォーマンスを行うために来られたのではなく、贖いの
代価として命を捨てるために来られたのです。イエス様が、このように言われたのは、
本来の目的(仕事)が妨げられてしまうため、不必要なヒーローになる必要がなかったからです。
ですから、主に従っていくとき、私達は、主の真意を思い量ることもせずに、自分の考えや判断で
やっていくことは、間違っているのです。
これは夫婦間においても同じです。女は男の助けてとして創られましたから、自分の自立心を
明け渡して夫に従い、一つ心となって夫の考えに委ねていくべきなのです。クリスチャンたちも、
夫であるキリストと一つとされたのですから、自分たちの自立心を明け渡し、砕いて初めて
イエス様の考えに従うことができるのです。
盲人は癒されても、イエス様に自立心を明け渡しませんでした。ですから自分の考えで正しいと
思ってやったことも、主の御心にかないませんでした。私たちも、自立心を主に明け渡し、
自我を砕いて、常に主の御心の中を歩んでいきましょう。 |
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