『御霊の助けを受けて歩む』
第Tコリント3章10〜17節
@ 今朝は、肉の性質を持ったクリスチャンが、この地上でどのように歩んで行けばよいのかを
学びたいと思います。
A さて、パウロはコリントのクリスチャンたちに語りかけています。
「聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。」(1章2節)と。
彼らは聖徒であり、聖なる者とされている者たちだと言われています。
どんな聖い人々かと思いきや、コリントの教会は、様々な問題を抱えている人々の集まりでした。
(分裂分派、争い、不品行、偶像礼拝等々です。)
ですから、「あなたがたは肉に属している」とか、「ただの人のように歩んでいる」とか言われて
叱責されています。しかし、彼らのこの姿は、私たち自身の姿でもあると言えるのです。
というのは、私たちは、肉を持った情けない姿を日々味わっているからです。
さらに、自分自身の心の内側を見るならば、コリントの人々と同じ者だと認めざるを得ないのです。
このような現実を踏まえた上で、パウロは、3章10節以降において、クリスチャンがどのように
歩むべきかを語っています。
B では、クリスチャンの歩みについて考えてみましょう。
パウロは、イエス・キリストを土台として、その上にどのような家を建てるのかは、あなたがたが
注意しなければならないと言っています。主の日には、火でその真価が試されるからです。
それぞれは、金、銀、宝石、木、草、わら等で家を建てるでしょう。
しかし、火で試されたとき残るものは、一目瞭然です。金と銀です。木、草、わらは言うまでもない
ことですが、宝石も、熱によって溶けてしまい、見せかけの輝きは燃え尽きてしまうのです。
そのような中でも、土台を失う事がなければ、建物は焼けても、自分自身は火の中を
くぐるようにして助かるという恵みの中にあります。
しかし、救いをないがしろにするなら、それは土台ごと壊してしまうことであって、神によって
滅ぼされてしまいます(3章17節)。ですから、たとい反キリストによって試されてもキリストを
否定するようなことだけはしてはいけないのです。
そのため、私たちは、純粋な金や銀の建物を建てていく努力が必要です。
しかしながら私たちは、相も変わらずに肉の弱さを持っていまので、自分の醜さ、罪深さを思い知ら
されては悩み苦しんでしまいます。「純粋で真実なパンで礼拝しなさい」と言われても、出来ない
自分があるのです。
このように、肉を持っている以上、クリスチャンが悩み苦しむのは当然のことです。
大事なのは、自分は100%罪人であり、自分の力では聖い生き方は出来ない者ですので、
このことをハッキリと認めて、100%へりくだるしかありません。
神はこんな私たちに、「助け主」を与えてくださいました。「御霊の助けです。」
神は御霊の助けによって、神の栄光のために生きていくように勧められています。
だから、生まれながらの自分には誇るべきところは1つもありませんが、御霊の助けにより、
キリストのために生きていく生涯は可能です。ここにクリスチャンの生き方があります。
C 私たちは、イエス・キリストによって、聖なる者とされました。
これは、神の御前に頂いた私たちの立場です。ですから、例え罪の肉の中にある者でも、
御霊の助けを四六時中頂いてキリストのために生きていくのが、クリスチャンの歩みなのです。
私たちは、永遠に神の子とされている立場を頂いているのですから、御霊による歩みを、常に求めて
歩むのです。私たちは、キリストの住まわれる神の神殿だと言われているのです。
ならば、私たちは四六時中、御霊の助けを頂いて、キリストのために生きていこうではありませんか! |
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