『信者のさばきについて』
マルコ2章23〜28節
@ 今朝は、「信者のさばき」について、黙示録と絡み合わせて学びたいと思います。
A さて、黙示録には、白き御座の審判において、「死んだ人々は、これらの書物に書き記されている
ところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。」と記されています。このさばきの場には
クリスチャンも立つのです。Uコリント5章10節では次のように言われています。
―「私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした
行為に応じて報いを受けることになるからです。」。それでは、「善であれ悪であれ」と言われる
善し悪しの判断は、どのように判別したらよいのでしょうか。自分では良いと思ってしたことが、
ダメだと言われ、悪いと思ったことが良いと言われてしまうこともあるでしょう。
B では、イエス様は、善し悪しをどのように判別して下さるのか見てみましょう。
先ず、パリサイ人たちの、律法に対する判断とイエス様の判断の違いを見ていきます。
ここでは、弟子たちが安息日に麦の穂を積んで食べたため、パリサイ人に非難されています。
それは、モーセの律法では安息日に労働をしてはならないと定められていたからです。
ところが、主は、それを無視しているかのように、安息日であっても食べても良いと言われ、
また病人を安息日でも癒されました。さらに、律法を守っていない取税人や罪人たちと食事を共にして
います。
又、弟子たちが断食をしなかった為に、非難を受けました。しかし、主は「今はその時ではない」
と、パリサイ人たちの非難を意に介しませんでした。ここに、律法を与えた方と、それを実行しよう
としているパリサイ人たちとの間にはズレがあることが分かります。どうしてでしょう?
人間は受け身ですから、文字通りやれば善いと思いがちです。しかし、律法を与えた方は違います。
イエス様は言われました。「安息日は、人間のために設けられたのであり、人間が安息日のために
造られたのではありません。」と。即ち、ルールは人を殺すためにあるのではなく、人を生かすため
にあるのです。ここに、人の見方と創り主の見方の違いが起こっています。だから、創り主対して、
信仰の行いによる善い生き方が必要です。人は一言も言い訳は出来ません。それは、被造物にはその
権利がないからです。
ですから全ての人が、創り主の目から見て、その人の行いに応じてさばかれるのです。
黙示録20章12節はクリスチャンのさばきについて記され、13,14節はいのちの書に名の記され
ていない未信者へのさばきです。確かにクリスチャンの場合は、さばきとは言っても、それは評価の
時であり、善し悪しの報いの時となるでしょう。それは、如何に主のお心に従ったかを評価され、
信仰による行いについて審判されるのです。
C 私たちは、永遠のさばきに会わないことを感謝しています。しかし、それに甘んじていたくありま
せん。信仰の勝利者になりたいのです。聖なる都エルサレムに住みたいのです。
勝利を得るとは、イエス様を最後まで信じ忍耐し続けていくことです。その行いにおいては、
たとい肉で出来ないと思っても、その心を砕いて「分かりました。」と従って行くことです。
ここに信仰による善し悪しの評価がなされます。自分の肉を空っぽにして霊的判断を大切にして
生きていくなら、イエス様はその行いを認めてくださいます。
肉の我を砕いて信仰の行いをしていきましょう。 |
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