『仏教の世界観が人生の地図になるか』
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仏教の世界観は、「私たちがどこから来て、どこへ行くのか」という人生の地図を指し
示しているでしょうか? そもそも、仏教の開祖である釈迦は、苦行の末に「悟り」を
開き、「諸行無常と響くなり」といって、鐘の音が、やがて消えていくように、人間も
消えてなくなり「一切は空なり」と無我の境地に入ることを説きました。そして、その
境地に入った時、輪廻の世界に生まれさせている「業」は消滅すると説いたのです。
すなわち、釈迦は輪廻からの解脱を願った人で、死ねば全ては終り、無になると考え
ました。ですから、「自分がどこから来て、どこへ行くか」ということに於いては、無記の
態度を取り、沈黙したのです。すなわち、釈迦の思想の中には、神的存在の思想、
浄土の思想、永遠の思想、罪の思想、救い主の思想は、一切なく、無神論の哲学であった
のです。ところが、1C〜2Cに成立した大乗仏教では、これらの思想が全て取り入れられ、
神の存在として阿弥陀が入り、天国の思想として西方極楽浄土とか東方浄瑠璃浄土の思想が
生れ、輪廻思想の復活によって人間の罪の因果が入り、救い主の思想として弥勒信仰(マイ
トレーヤー)が生まれました。この考えは、釈迦の説いた教えとは、程遠く、正反対と言って
もいいものでした。しかし、なぜこの考え方が仏教に入って来たのかといいますと、1C〜2C
頃に、キリスト教の布教が、中国、インドにもたらされ、キリスト教の教理が仏教に取り
入れられて、大乗仏教となったのです。又、日本に入ってきた仏教は、この大乗仏教であり、
仏教を根付かせた聖徳太子は、厩戸皇子(うまやどのおおじ)と呼ばれ、イエスキリストの
名にちなんでいると言われます。このように、もともと釈迦の教えには、「人間がどこから
来て、どこへ行くか」は語らず沈黙されていたのですが、日本に入ってきた大乗仏教に
よって、浄土の思想が生まれ、阿弥陀信仰が生まれたのです。しかしながら、阿弥陀の
存在は架空のものですから、念仏を称えても、そこに確かな人生の地図となるものはありま
せん。(阿弥陀如来については架空の存在であるとNHKTVにて仏教僧が言及。)ですから、
救い主を阿弥陀からイエス・キリストを そっくりそのまま入れかえれば、皆救われるの
です。では、次回、聖書から見る人生の地図を考察したいと思います。
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