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2008年1月27日



                   



                          
『不動の信仰に立って歩む』
                                    



ルカ18章18節〜30節



       
@ 今朝は、不動の確信に立って歩む生き方について学びたいと思います。

A さて、クリスチャンの土台は、「砕かれた悔いた心」です。それは、「空っぽの器」

でもあり、私たちはそれを求めてきました。その中で、「しばらくの苦しみのあとで完全に

し、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださる」との御言に導かれて、その不動の確信

を追及してきました。こうした、純粋な信仰に立って生きていく生き方は、ある人々から

見れば、キレイ事の生き方に見えるでしょう。しかしそれは、イエス様ご自身の生き方で

あり、又クリスチャンの全てに求められている生き方でもあるのです。

B では、イエス様が私たちに望んでおられる生き方はとは何かを、考えてみましょう。

ある役人はイエス様に言いました。「私は何をしたら、永遠の命を自分のものとして受ける

ことができるでしょうか。」と。そこで、イエス様は全ての戒めを守っているという彼に

言われました。「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部

売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになり

ます。その上で、わたしについて来なさい。」と。これこそキレイ事の極限ではない

でしょうか。全財産を捨てたら、自分を守るものは何も無くなります。天に宝を積んでいる

と言われても、目には見えず、天に行かねば分かりませんから、それにすがることは出来ま

せん。そこでこの役人は、大変な金持ちだったので非常に悲しんで去っていきました。

永遠の命を欲しいと思い、それを得るチャンスを与えられたのですが逃げてしまったのです。

それは、彼の意志で決めたことです。人が持つ人格は、意志決定できる特権ですが、その

能力を逃げるために使ってしまったのです。私たちはみな人格を持っていますが、その人格

は罪に汚れていますので、これを明け渡す経験をしなければならないのです。そのために

主は、私たちに試練を下さるのです。アブラハムもそうでした。彼には、年老いてから

与えられたイサクがいましたが、創り主はその一人息子のイサクを捧げるように求められ

ました。このイサクは約束された子であり、地上で祝福を得る土台でした。しかしアブラ

ハムは、この祝福の土台のイサクを献げるように求められた時、全ての元は創造主にあると

信じ、自分の人格さえ明け渡して、主のおことばに従ったのです。このアブラハムの信仰の

故に、創造主はイサクを彼に返し、更なる祝福をアブラハムに与えられたのです。

このアブラハムの生き方こそ、主が私たちに臨んでおられる不動の信仰に立った生き方です。

C 
私たちは、自分で自分を支えて生きていくのではありません。なぜなら、私たちの命

だけでなく、信仰さえも与えられたものです。ですから、自分で自分を守るのではなく、

「もはや我生くるにあらず・・・」という空っぽの器であることをハッキリと意識して、

自分の人格を明け渡していくべきです。
創造主は、しばらくの苦しみのあとで完全にし、

堅く立たせ、強くし、不動の者とすると言い、更に大いなる恵みを注いで、私たちを全世界

に向かって用いてくださると約束してくださっているからです。この主に、純粋な信頼を

働かせて、不動の確信に立って歩んでいきましょう。 


    


                                        

  
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