『不動の信仰に立って歩む』
                   
      
        
          
                                                 
             
             
             
            
            ルカ18章18節〜30節 
            
 
             
                   
            
              
                
                  @ 今朝は、不動の確信に立って歩む生き方について学びたいと思います。 
                   
                  A さて、クリスチャンの土台は、「砕かれた悔いた心」です。それは、「空っぽの器」 
                   
                  でもあり、私たちはそれを求めてきました。その中で、「しばらくの苦しみのあとで完全に 
                   
                  し、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださる」との御言に導かれて、その不動の確信 
                   
                  を追及してきました。こうした、純粋な信仰に立って生きていく生き方は、ある人々から 
                   
                  見れば、キレイ事の生き方に見えるでしょう。しかしそれは、イエス様ご自身の生き方で 
                   
                  あり、又クリスチャンの全てに求められている生き方でもあるのです。 
                   
                  B では、イエス様が私たちに望んでおられる生き方はとは何かを、考えてみましょう。 
                   
                  ある役人はイエス様に言いました。「私は何をしたら、永遠の命を自分のものとして受ける 
                   
                  ことができるでしょうか。」と。そこで、イエス様は全ての戒めを守っているという彼に 
                   
                  言われました。「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部 
                   
                  売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになり 
                   
                  ます。その上で、わたしについて来なさい。」と。これこそキレイ事の極限ではない 
                   
                  でしょうか。全財産を捨てたら、自分を守るものは何も無くなります。天に宝を積んでいる 
                   
                  と言われても、目には見えず、天に行かねば分かりませんから、それにすがることは出来ま 
                   
                  せん。そこでこの役人は、大変な金持ちだったので非常に悲しんで去っていきました。 
                   
                  永遠の命を欲しいと思い、それを得るチャンスを与えられたのですが逃げてしまったのです。 
                   
                  それは、彼の意志で決めたことです。人が持つ人格は、意志決定できる特権ですが、その 
                   
                  能力を逃げるために使ってしまったのです。私たちはみな人格を持っていますが、その人格 
                   
                  は罪に汚れていますので、これを明け渡す経験をしなければならないのです。そのために 
                   
                  主は、私たちに試練を下さるのです。アブラハムもそうでした。彼には、年老いてから 
                   
                  与えられたイサクがいましたが、創り主はその一人息子のイサクを捧げるように求められ 
                   
                  ました。このイサクは約束された子であり、地上で祝福を得る土台でした。しかしアブラ 
                   
                  ハムは、この祝福の土台のイサクを献げるように求められた時、全ての元は創造主にあると 
                   
                  信じ、自分の人格さえ明け渡して、主のおことばに従ったのです。このアブラハムの信仰の 
                   
                  故に、創造主はイサクを彼に返し、更なる祝福をアブラハムに与えられたのです。 
                   
                  このアブラハムの生き方こそ、主が私たちに臨んでおられる不動の信仰に立った生き方です。 
                   
                  C 私たちは、自分で自分を支えて生きていくのではありません。なぜなら、私たちの命 
                   
                  だけでなく、信仰さえも与えられたものです。ですから、自分で自分を守るのではなく、 
                   
                  「もはや我生くるにあらず・・・」という空っぽの器であることをハッキリと意識して、 
                   
                  自分の人格を明け渡していくべきです。創造主は、しばらくの苦しみのあとで完全にし、 
                   
                  堅く立たせ、強くし、不動の者とすると言い、更に大いなる恵みを注いで、私たちを全世界 
                   
                  に向かって用いてくださると約束してくださっているからです。この主に、純粋な信頼を 
                   
                  働かせて、不動の確信に立って歩んでいきましょう。  | 
                                   
                                
                               
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