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2007年7月1日





 『アガペーの愛の実践』


コロサイ書2章1〜5節



@ 今朝は、「アガペーの愛の実践」は、信仰そのものであることを学びたいと思います。


A さて、コロサイ書にも“愛”が多く出てきます。一章から分かることは、コロサイの人々が

全ての聖徒たちに愛をもって接しようとしていたからです。彼らは、優しい心を持っていた

人たちなんだと思いますが、ところが、彼らの愛は、そんなセンチメンタルな愛ではないのです。

ここに出てくる愛はフィリオスの愛(相互の愛)ではなく、アガペーの愛(一方通行の愛)です。

ですから、彼らの見返りを求めない愛の実践は、彼らの信仰そのものだったということです。



B では、「アガペーの愛=信仰である」ということについて考えてみましょう。

コロサイの人々についてこう言われています。「御霊によるあなたがたの愛」。これは、御霊に

よってアガペーの愛を表している事を意味しています。即ち彼らは、イエス・キリストへの信仰

の故に、全ての聖徒たちにアガペーの愛を尽くしていこうとしていたのです。すなわち、人から

の見返りを求めず、純粋にキリストのためにやっていこうとする心が、愛という言葉に秘められ

ていたのです。故に、アガペーの愛=信仰、と言えるのです。それでは具体的な例を見てみま

しょう。ヨハネ第三の手紙では、旅人をもてなしているガイオについて書かれています。

それは、単なる、もてなしではありませんでした。キリストに尽くす愛で、キリストのために

働いている者たちに対して尽くしているもてなしです。ですからヨハネは、その行為によって、

「真理のための同労者となれる」、と言っているのです。一方ヨハネは、「互いに愛し合いな

さい」と語りつつ、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない反キリストには、

「家に入れることも挨拶することもいけない」とも言っています。

 このことから、愛だからといって、何でもかんでも受け入れ、親切にすればいい、というの

ではないことが分かります。確かに、創造主は、損得のない一方通行の愛を注いでくださり、

御子の命を丸ごと与えて下さいました。しかし、それを信じて受けようとしない者には、地獄の

裁きがあります。これらのことから、アガペーの愛とは、人間的なセンチメンタルな愛ではなく、

その動機はいつもキリストのためであることを理解しておくべきです。私たちがキリストの

ために生きるということは、私たちの目はいつも「創造主の栄光のため」、という一点に焦点が

合わされていきます。すなわち、私たちの信仰はアガペーの愛の実践ということなのです。


C 「あなたがたは、キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。」

と言われています。キリストを土台として判断し、あらゆる動機がそこにある生き方こそ、

キリストにあって生きていく生き方です。
それは、欲得抜きの一方通行のアガペーの愛で生きて

いくことです。もし、欲得の心があると、その隙間にサタンが入ってきて騙されてしまいます。

そして、その後は抜け殻のようになってしまいます。今こそ私たちはキリストに在って生きる

アガペーの愛で生き、信仰を証ししていきましょう。 



    


                                        

  
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