ふく いん せん きょう
『福音宣教について V』 |
ヘブル語のエロヒムを「神」と翻訳した日本語の聖書は、福音宣教の妨げになっています。
まつ
なぜなら、「神」と言えば、日本では神社・仏閣に祀られ、天皇も神として祀られた時期がありま
のぎ すがわらのみちざね
す。すなわち、英雄とか特別に能力のある人(乃木将軍・菅原道真)などは、人間が神となって
はんしんろん
祀られてきました。すなわち、日本の神概念は汎神論の神であって、それは八百万の神々であり、
キリスト教の神は、外国の神々として意識されてきただけです。そこには、唯一の神・全能の神・
全知の神として意識されなかったのです。しかし、聖書のエロヒムは万物の創造主であり、唯一の
全知・全能の絶対者です。たとえば人間の体は、どれ1つ取っても、自分で造ったものはなく、
全部創り主によって造られたものです。だから、「自分の思うようにならない」のは、当然のこと
であり、このお方に全面的に従うことは当たり前のことなのです。これは、信者も未信者も同じ
です。ですから、人間の命の厳密さを証しすれば、自ずから、唯一の神が分り、造り主とつくられた
そうぞうしゅ
者の人間の立場が意識されてきます。ですから、私たちは、聖書の神を「創造主」とお呼びすべき
です。この創り主との関係は、人間として生きることの土台であり、又信仰の土台でもあります。
まさに今、日本にはキリスト教宗教改革が必要です。創造主としてのエロヒムを伝えなければ、
日本の教育はだめになってしまいます。自分の命が、造り主によって、よく考えられて創られた
尊い命であることが分らなければ、「ゴキブリも人間も同じだ」となってしまうのです。私たちの
生き方を「創造主」を土台にしていくとき、人間として生きる道も、信仰の道もはっきりしてくる
のです。
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