「ヤコブの手が、兄エサウの手のように毛深かったので、イサクには見分けがつかなかった。それで
イサクは彼を祝福しようとした。」 (創27:23)
私たちは、ヤコブがエサウを出し抜いて、祝福を手にしたことに、批判的になるかも知れません。
しかしながら、新約聖書にはこの件に関してエサウへの同情はなく、又ヤコブへの批難のことばも
ありません。ヤコブに関しては、アブラハム・イサク・ヤコブの神として、神様はヤコブを受け入れら
れ、今も天にて一緒に食卓につく者(マタイ8:11)と言われています。ですから、私たちはヤコブ
が抜け目なく、永遠の住いを用意したことを主がほめられたのだと思います。(マタイ16:9)
しかし神はその方法手段については、認めておられないと思います。それはホセア12:3、
エレミヤ9:4で神の御心にかなわない行為の1つの型として表現されているのも事実だからです。
しかし、1つの点は言えます。ヤコブも、私たちも、みんな同じ罪人です。しかしながら、神様はこんな
罪人を探して救うために来て下さったのです。それは、事は人間の願いや努力によらず、あわれんで下
さる神によるからです。だから、人の不正を探して、あげつらうより、こんな罪人でも用いて下さる神
に感謝し、「私を祝福して、用いて下さい」と叫ぼうではありませんか。
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