「信仰のたくましさ」
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マタイ12章22〜37節
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たくま
@ 今朝は、信仰の“たくましさ”について考え、その逞しさはどのような心に生まれて来るのかを
学んでみたいと思います。
A さて、私たちの教会に足りないものは“たくましさ”であると思います。もし、私たちがキリス
トのためなら、「何でもやろう」という思いが力強く現れてきたら、どんなに素晴らしいことで
しょうか。しかし、ここ十数年間は、ひたすら忍耐することを訓練されてきました。
しかし、なかなか伝道の実が上らない中にあっても、心を奮い立たせて伝道して来ました。
しかし、願い通りの成果を出せたというわけではありませんでした。ですから、ただ単に奮い立っ
たくま
てやって行くことだけが逞しさ、というのでも無い様に思われます。それでは、逞しさとは何でしょ
ぼうとく
うか。そのヒントが、「人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。」という御言葉にあるように思い
ます。
B では、この御言にどんなヒントがあるのでしょうか、見てみましょう。
ぼうとく
御言には「人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。」とあります。これまで私たちは、人の
さば
人格や神に対する冒涜は数多く口にして来ました。ですから、本来なら裁きの時には弁解の余地も
無く、神の怒りが下ります。にもかかわらず、それは、イエス様が過ぎ越しの子羊として、私たち
あがな
の罪の贖いとなってくださったからです。過ぎ越しとは、イスラエルの民がエジプトを脱出する時
になされた神の救いの出来事です。人から家畜に至るまで、全ての初子を殺すという神の裁きが執行
される時、子羊の血がかもいに塗ってある家だけは過ぎ越して行きました。それは、家の二本の
かもい
門柱と鴨居に傷の無い子羊の血を塗るということだけでした。その血の塗られている家には裁きが
下されることなく、過ぎ越して行かれるからです。その子羊こそイエス・キリストです。そして今、
キリストを信じる私たちにも、キリストの血が塗られているのです。それ故に神の裁きは、私たちの
前を通り越して行かれるのです。ですから、「人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。」という
救いがあるのです。私たちにとって、こんな救いが、他にありましょうか。もう自分のダメさ加減を
見て、「自分はダメだ。」と消沈する必要はありません。「ただイエス様のために生きて行きま
す。」とイメージして生きていけばいいのです。全ての罪を見過ごして下さる子羊イエス様がいるの
たくま
ですから、この平安な心のゆえに、「私をどんな事のためにも、使ってください。」という逞しさが
出て来るのです。
C 私たちは、自分が持っている信仰のイメージによって行動が左右されています。
はいせき
パリサイ人たちは昔からの言い伝えや、律法によるイメージによってイエス様を排斥しました。
しかし私たちは、正しいイメージがあります。それは、アダムがエデンの園にいた時、神との間に
ゆだ
何のストレスも無く、百%委ね切っていたイメージです。同じようにイエス様は、「わたしが
あなた方を休ませて上げます。」と言って下さっています。だから「そうか!イエス様が全部負って
たくま
くださったから全部救われているんだ。」というイメージが入って来たら、逞しさが生まれて来るの
たくま
です。この良いイメージで、人々にイエス様を逞しく伝えていきましょう。
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