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2003年8月17日


神の目から見る生き方


ヨハネ12章1〜8節



@ 今朝は、8節の御言の真意を考えながら、神の目で見、考えていく事が、クリスチャンの生き方で

ある
ことを学びたいと思います。


A さて、人間を始めとして、命有るものには皆、死がやって来ます。この死を思う時、生きることの

空しさを覚えます。死は人間の努力の全てを消し去ってしまい、「何のために苦労して来たのか」

と敗北感だけを残すからです。しかし、全てのものの創造主である神は永遠の方で、死に影響される

方ではありません。ですから神は、御子イエス・キリストをこの世に遣わされ、罪の報いを受けて、死

んでいく人間の罪を贖い、永遠に生きる者にしようとされたのです。 それ故イエス様は言われまし

た。 「わたしが、道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、誰ひとり父

の御許に来ることはありません。このことを信じますか。」
と。ところが、このイエス様の使命に誰一

人、気づこうとせず、その愛に、身も心もついていかない者たちが一杯いたのです。そのことが明ら

かとなったのが、マリヤの香油の出来事でした。


B では、マリヤの香油の出来事について見てみましょう。イエス様がベタニヤに来られたのは、
                                  ばんさん
十字架につかれる6日前でした。 人々は晩餐の用意をし、イエス様は食卓についておられました。

その時マリヤは、非常に高価で純粋なナルドの香油をイエス様の足に塗り、自分の髪の毛でぬぐった

のです。このマリヤの行為に対して、イスカリオテ・ユダは疑問を持ち、マリヤを非難して言いまし

た。 「なぜ、この香油を3百デナリ(約3百万円)に売って、貧しい人々に施さなかったのか。」と。

この考えはユダだけでなくそこにいた多くの者たちの考えでもありました。しかしイエス様は言わ

れたのです。 「そのままにしておきなさい。・・・あなたがたは、貧しい人々とは、いつも一緒に

いるが、わたしとはいつも一緒にいるわけではないからです。」と。確かに、香油を売った3百万円で

多くの人々が幸いを味わえるかもしれません。しかしイエス様は、数日後には十字架に掛けられて

天に帰って行こうとしているのです。しかも、神の御子でありながら、この地上では、何一つ特別な
                                           あがな
幸いを受けては来ませんでした。それが、人間の死を贖う死を目前にして、初めて受けた地上での

神の子にふさわしい幸いな行為だったのです。 一方、貧しい人々は、これからその幸いを受けるチャ

ンスはいくらでもあるのです。ですからイエス様は、マリヤの行為を辱めず受け入れられました。

ユダの発想は、あたかも理にかなっているかのように思えますが、どこまでも人間的で主観的な物の

見方なのです。私たちも、いずれ天に行く者ですから、天に目を留めた考え方、生き方をして行かなけ

れば、天に帰った時、恥をかくのです。


                                      あがな
C 私たちクリスチャンは、キリストによって贖われた新しい命を持った者ですから、「新しい生き

方をしていきなさい。」と言われています。死で終わる人生ではないのですから、いつも天的な生き方

をするのです。そしてその発想の動機は全て、キリストに在って良いか悪いかを考えていくので

                               しゅうしふ
す。自分中心に考える地上的な人生に終止符を打ち、天で目が覚めた時、「よかった。」と思える生き方

をして行こうではありませんか。そのために、このイエス様の天に目を留めた発想に習って行きま

しょう。 
 





                               

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