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万物 


クリスチャンの空中携挙と、キリストの再臨の時はいつなのか、

また私たちの終末の備え
と、心構えについて学びたいと思います。

                 
弱い私に、なぜ行いが求められるの!

 キリストの再臨の時期については、それぞれの教派に

よって様々な受け取り方があります。

しかし私たちは、教派や教理によらず、聖書の御言によって、

はっきりさせたいと思います。それによって、私たちの現在の生き方が、

イエス・キリストにあって、明確になってくるからです。
     
では、クリスチャンの携挙と主の再臨の時について、聖書から見ていきましょう。

マタイの福音書24章 ---- 弟子たちはイエス様に、

「再臨の時や世の終わりには、 どんな前兆があるのか。」という質問をしました。

れに対してイエス様は、その順序を詳しく語っておられます。

そのキーワードは、「荒らす憎むべき者」(15節)です。

 この者が聖なる場所(エルサレムの神殿)に立ったその時から、

かつてなかったような大患難が起こるとはっきり言われています。


弱い私に、なぜ行いが求められるの!

 「荒らす憎むべき者」とは、

   黙示録13章18節にある
 666(反キリスト)の事です。

ー24章ー
 
 15節 預言者ダニエルによって語られた、「荒らす憎むべき者」が聖なる所に立つ・・・・。

 21節 その時、いまだかつてなかったような・・・ひどい苦難がある。

 24節 苦難に続いて、すぐに太陽は暗くなり・・天の万象が揺れ動かされる・・・。

 30節 その時人の子が・・大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来る。

 31節 すると御使いたちが、・・・四方からその選びの民を集めます。



このように、「荒らす憎むべき者」666の出現の後、大患難が起こり、その後、主が来られ、

選びの民を集め携挙があると、はっきり記されています。

              
この福音書の順序と黙示録の順序は全く一致しています。


     ・黙13章で、666の獣が現れ、聖徒に打ち勝つ、・・・ひどい苦難がある。

   ・黙14章で、人の子が雲に乗ってくる。地を刈り取る。(携挙)
  
   ・黙19章で、主の地上再臨(ハルマゲドンの戦い)


ということは、福音書の記事も、黙示録の記事も同様に、クリスチャンは「反キリスト」を見た後に、

天に挙げられるということを記しています。

   
  だから、
私たちクリスチャンは、患難時代のまっただ中を通るということなのです。

ところが、「患難時代が始まる前に、主の空中再臨があって、クリスチャンは天に携挙される」と

考えている教会もあります。もしそのように受けとめているなら、患難時代が来る前に、

天に引き上げられるクリスチャンは、今のまま、特別に目を覚ましている

必要もなく、忍耐して備える必要もなくなります。

 しかし、イエス様は、「荒らす憎むべき者」が現れた後に、

天の雲に乗ってくると言われているのに、その言葉を無視して

自分たちの考えに立ち続けたらどうなるでしょう。

「患難時代の前に天に引き上げられている」と考えていた信者たちは、「荒らす憎むべき者」が

現れたのを見た時に、混乱し、つまずき、
 裏切り合い、憎しみ合うのではないでしょうか。
                                                                                         (マタイ24:10)

初代教会のクリスチャンたちでさえ、苦しみと試練の激しい迫害の中で戦い、

証ししていったのです。

まして、世の終わりに臨む私たちが、戦いもなしに、天に引き上げられるわけがありません。
 
 主は「忠実な思慮深いしもべと、悪いしもべ」のたとえを話されました。それは、

患難時代に臨むクリスチャンに対して、イエス様が、どのような心構えで主を待ち

望んでいくべきかを、私たちに示されたのです。

それは、患難時代の来る前に、天に引き上げられると考えている人々への警告です。

聖書の中には、「荒らす憎むべき者」の出現の前に、携挙があるなどとは、どこにも書かれて

ありません。聖書をよく読めば、その根拠は、一つもないのです。
 
  黙示録には14章まで、
 「イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たちの忍耐はここにある。

とありますから、「聖徒」は、間違いなくここまでいます。主が天の雲に乗ってこられることと、

クリスチャンの携挙、そして主の地上再臨は、一連の出来事です。

ですから、終末の時を前にして、いつも目を覚まし、忠実な思慮深いしもべとなっているなら、

主を迎える良き備えとなるでしょう。 

 それなのに、クリスチャンは、患難時代の前に天に携挙されると


都合よく考えている脳天気な人々は、油を用意しておかなかった愚かな

娘たち
になります。自分たちだけが、どうしてフィラデルフィヤの教会と

言えるのでしょうか? 

その根拠は1つもありません。私たちは、世の終わりに証ししていく責任があります。

福音が全世界に宣べ伝えられてから、終わりが来るからです。

そのために油注ぎがされるのです。(使徒2:17〜21)


弱い私に、なぜ行いが求められるの!

このように、クリスチャンが、患難時代を通ってくることが分かれば、眠っていることは

出来ません。この終わりの時代が来る前に、私たちの働きは、全世界に福音を伝えていく

ことです。主は、私たちが死に至るまで忠実であることを願っておられます。

ですから、目を覚まし、信仰を全うする者が、永遠の御国に入れて頂ける秘訣です。


     私たちの地上のいのちは失われても、    天上の永遠のいのちにこそ価値があるのです。(Uコリント5:1)

                たとえ、患難の時代がきたとしてもイキがらず、
  
                            当然のこととして受け入れ、証をして行きましょう。




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