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2025年4月13日

生まれ持つ自分の「我」を折り、
主を信じた者の前向きな心へ転換する』

マルコの福音書 1:4、4:35~41


(起) イエス様が湖上で嵐を静められたマルコ伝4章の記事から、生まれ持った人間の考え方から離れ、

生まれながらの古い自分の「我」を折って、主を信じた者の前向きな考え方にガラッと変えて、
「心の

転換を図ったバプテスマ」(マルコ1:4)
の中に飛び込むことを学んで行きたいと思います。


(承)さて、イエス様と弟子達が舟に乗って湖に漕ぎ出すと、激しい突風が起こり、波が舟の中に打ち

込んで、水(びた)しになってしまいました。ところが、イエス様は舟の(とも)(後ろ)の方で眠っておられた

ので、弟子達は
「私どもが溺れて死にそうでも、気にならないのですか」と言ってイエス様を起こし

ました。すると、イエス様は起き上がり、風を叱り付けて「静まれ」と言うと、風は止んで大凪になったの

です。そして、弟子達に言われました。
「なぜ、そんなに怖がるのですか。どうして信じる心がないの

ですか」
と戒められたのです。私達はこの戒めを読むと、「たとえ、どんな危険な状況が起こっても、

不安になってはいけないし、寝ているイエス様を起こしてはいけないのだ」と思ってしまいます。しかし、

こういう状況になれば誰でも不安になるのは当然ですし、寝ているイエス様を起こさない訳にはいきま

せん。私達は、信仰、信仰といっても、そんなにお利口さんにはなれません。では、この時弟子達は、

どのようにイエス様に声を掛ければ良かったのでしょうか。それ
は、イエス様が「どうして信じる心が

ないのですか」
と言われたのですから、弟子達は、信じる心を持って「イエス様!助けて下さい。起きて

下さい」
と言えば良かったのです。つまり、「イエス様は助けて下さる。イエス様にはその力がある」

という、信頼の気持ちを持った上で、イエス様を起こせば良かったのです。それを、ただ不安な気持ちで、

「私どもが溺れて死にそうでも、気にならないのですか」と腹立ち紛れにイエス様を起こせば、イエス様も、

「何故、そんなに怖がるのか」と、怒りたくなる気持ちも出て来ます。
もし、信頼する心があれば、「気に

ならないのですか」
という言い方はしないでしょう。むしろ、信頼する心を持ってイエス様を起こしたので

あれば、「ああ、わたしが静めるから」と言われて、この問題は平安の内に終わっていた事でしょう。

ですから、ここで大切な事は、「怖がってはいけない」とか「イエス様を起こしてはいけない」という

戒めではなく、私達がどこまでも主を信頼する気持ちを「前向きに表すか、表さないか」ということで

しょう
人間なら、怖がるのは当然です。だからこそ、主を信じ、主に信頼するのです。すると、主が

成し遂げて下さるのです。


(転)では、私達がこんな危険な状態に置かれた場合、「どこまでも主を信頼する」という気持ちを

前向きに表して行く為には、どうしたら良いのでしょうか。それは、私達の心の中に入り込んでいる


「ああ駄目だー」「できない」
という、生まれながらの古い自分の意識から、主を信じた者の前向きな

意識にガラッと変えて、
「心の転換を図ったバプテスマ」(マルコ1:4)の中に入って行くことです。

それは、
生まれながらの自分勝手な我を折って「主を信じて行く」と決めた、新しい心の転換を図った

中で生きて行くことです
これが「新
しく生きる」という事です。弟子達は、主に信頼する気持ちを

持たずに、イエス様に叫びました。最初の頃は、イエス様も大目に見て助けて下さったかもしれません。

しかし、弟子達がいつまでも主を信じる心を持たず、
自分を見て、すぐ恐れて不安になっているだけでは、

イエス様は彼らを(もち)いる事ができません。ですから、心の転換を図らなければ、「主に信頼せよ、

主が成し遂げて下さる」という新しい世界が開けて来ないのです
。ですから、
私達にとって一番良くない

事は、自分の過去の経験や性質に凝り固まって、生まれながらの「我」を持ったまま、そこに留まって

いる事です。
それが、私達が意識していない古い我ですそこから離れなければ、聖書の世界を味わう事は

できません。
私達は主を信じたのです。ならば、自分の我を折って、主の考えに立つべきです。力のない

駄目な自分自身は、充分に分かっています。しかし、全能主にとって出来ない事はないのですから、その

お方を前向きに信じて、信頼して行こうとする
心の転換は、実行しなければ始まりません。確かに、

生まれながらに持っている能力、賜物には違いがあります。しかし、「自分はすぐれた能力を持ちたい」と

願って生まれて来た者は一人もいません。また、自分の命の存在も、自分が決めたわけではありません。

「自分の命は自分が造ったのではなく、全能主が造って下さった」のです。ならば、私達にとって大切な

事は、自分自身の命の産みの親である全能主の考えに基づいて生きて行こうとする事です
。即ち、古い我の

ままの、古い意識ではなく、聖書の考えに合わせて行く事です。聖書には、「からし種は、地上のどんな

種よりも小さいが、それが蒔かれると、空の鳥が巣を作るほど大きくなる」(マルコ4:31~32)と

言われています。また、「良い地に蒔かれたものは、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ」(マルコ4:20)と

約束されています。それなのに、「自分は駄目なものだ」と縮こまってしまったら、それまでです。

しかし、聖書に約束されている事は、主を信頼して行けば、「一番小さな種でも、空に鳥が巣を作るほどに

成長する」という約束です。
「信仰は、前向き思考です。」本当に「そうなるのだ」と、大見得を切ってでも、

大胆に信じて行くという信仰が必要です
私達は、この前向き性を失ってはいけません。


(結)私達は、イエス様を信じました。この事実は変わりません。ならば、全能主を信じ、全能主にあって

生きている者ですから、自分という弱い性質にびびって、後ろばかり見ず、どこまでも、聖書の考えに

合わせて行く、素直な心と信仰に立つ勇気が必要です。そして、生まれ持った能力や肉の弱さという

ハードルを越えて、主を信頼する世界に飛び込み、羽ばたいて行くのです。どうか、「自分はこうだから」

と言って、自分自身の「我」に立ったり、自分を制限したり、縛ったりしないで、信じる世界に飛び込んで

下さい。
弱いからこそ、主に信頼して行く前向きな気持ちを表し、「主が成し遂げて下さる」という、

聖書の世界を味わって行こうではありませんか。


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