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2024年6月2日

自分に対して生きて行くのではなく、
全能主に対して生きて行く、信仰の従順な心

ローマ人への手紙 14:7、8


(起) ロマ書14章7、8節の御言葉から、「自分に対して生きて行くのではなく、全能主に対して

生きて行く」
という、信仰の従順な心を持って、生涯主にお仕えして行く事を学んで行きたいと思います。


(承)さて、ロマ書14章7節、8節を見ますと、「私たちの内、誰一人として自分のために生きている

者はなく、誰一人自分のために死ぬ者はありません。それは、私たちが、生きるなら主のために生き、

死ぬなら主のために死ぬからです」
とあります。パウロは、私達一人一人がこの従順な心を持つ者となる

事を願って、この手紙を書きました。そして、15章18節では、「私は、異邦人を従順にならせるために

キリストが私を用いて成し遂げて下さったこと以外には、何かをあえて語ろうとは思いません」
とあり

ます。「異邦人である私達が従順になるために、キリストが成し遂げて下さったこと」とは、何でしょうか

それは十字架の贖いによる、律法からの解放です。私たちは、イエス様の救いを知るまで、自分を根拠

にして生きて行くしかありませんでした。即ち、自分に依り頼み律法的に「これをしなきゃならない、

あれをしなきゃならない」という中で、人から認められようとしてきたのです。しかし、自分を根拠にした

その生き方は、生まれながらに罪人である私達にとって、悩み苦しむだけのものでした。ところが、

そこから私達は解放されたのです。即ち、全能主が「もう律法によって、お前たちを評価する事はしない。

イエスの贖いを通してお前たちを見る。お前たちは律法に対して死に、解放されたのだ」と言って、

新しい生き方を示して下さったのです。それを知ったとき、私たちは「そのように扱って下さる全能主に

対して生きて行きます」と心が切り替わって行きました。即ち、私達はもう自分に対して生きて行く

のではなく、全能主に対して生きて行こうと思えたのです。それが、異邦人である私達が主に従順になって

行く道です。

(転)では、律法から解放された私達は、ロマ書12章から出てくる戒めの内容を、どのように受け留めて

行ったらいいのでしょうか。
確かに、私達はイエス様によって罪赦され解放されたのですが、依然として

魔物を抱えた罪人であることは変わりません。それもそのはず、イエス様の贖いはアオリスト形であり、

現在の私達の状態の如何に関わらず、救って下さっているということです。ですから、贖いは宣言なのです。

それ故に、私達の罪の体が御子の栄光の体と全く同じ姿に変えられるのはキリストの再臨の時まで

待たなければなりません。
すると、12章に記されている戒めを読んだ時、「魔物を抱えた私達が、

どうやって全能主の御心に適った生き方をして行けばいいのだろうか」
と困惑してしまいます。そこで、

パウロの答えを見て行くと「御霊によって新しい生き方をして行きなさい」とあります。その生き方とは

どういうものでしょうか。それは、12章2節に書いてあります。「あなた方は、この世と妥協させられ

てはいけません。むしろ、自分の心を新たにすることによって、何が全能主の御旨であるか、あるいは

何が善であって
全能主に喜ばれ、かつ全きことであるのかをわきまえ知るために、変えられ続けなさい」

と。
要するに、「御霊によって生きて行く」ためには、何が全能主の御心か、何が善であって、全能主に

喜ばれるのかという事を、全能主に聞き、聖書を通してそれを学んで行かなければなりません。すなわち、

全能主の中に生き始めたということは、自分のしたいことをして行くのではなく、全能主がして欲しいと

願っておられる生き方をして行くことです。
それが、全能主に対して生きるということです。例えば、12章

8節に、「勧めをする者であれば心を込めて勧め、分け与える者は惜しみなく分け与え、指導する者は

熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすること」が全能主の御心です。であるならば、そうして

行こうと素直に心を向けていくことです。しかし、これは「やらなければいけない」という律法ではなく

「信仰によって、その方向に心を向けて行くように」と示されているのです
ここに少しでも律法的な

感覚が入ると、御霊によって歩むのではなく、自分の力で全能主の御心を成そうということになって

しまいます。すると、「できない」自分に逆戻りすることになります。
私達はもう肉に対する責任は

負っていないのですから、自分の力でするのではなく、御霊の助けを頂いて、全能主に対して一途に

生きて行くのです。
即ち、常に全能主にあって、事を行って行くという事です。こうして、自分のために

生きるのではなく、もっぱら全能主のために生きて行くのです。


(結)こういうわけで、私達は依然として罪人のままで、完全ではありませんが、御霊の助けの中で

行って行くように、考え方を変えていくのです。それは、はっきり言って、聖書に書いてある通りに

完璧にはできませんが、たとえ、聖書の通りできなかったとしても、私達にはイエス様のアオリスの

救いがありますから、何度でも、挑戦していくことが出来ます。アオリストの救いは、私達の現在の

状況如何に関係なく、全能主は私達を罪から解放された者として見て下さっているからです。

ならば、聖書に書いてある事は全て、「全能主はそのようにお考えなんだな」と前向きに受け留め、

信仰によってその方向に心を向けて行けば良いのです。この新しい歩みを、御霊によって始め出しま

しょう。
それは「私達はもう自分に対して生きて行くのではなく、全能主に対して生きて行く」

という事です。どうか、この心を持って、信仰の従順な生き方を残りの生涯で証し、主にお仕えして

行こうではありませんか。


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