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2023年4月23日

『自分を徹底的に否定し、自分の十字架を負って、
主に従って行く姿を、主は見られる

マルコの福音書 8:31~38


(起)マルコ8章31~38節の御言葉から「あなたは全能主の方に心を向けないで、人の方に心を

向けている」
と言われたイエス様の言葉を思い返し、「自分を徹底的に否定し、自分の十字架を負って

主に従って行く」
ことを学んで行きたいと思います。

(承)さて、イエス様が弟子たちに「あなた方はわたしを誰だと言いますか」(8:29)と尋ね

られると、ペテロは即座に、「あなたこそキリストです」(8:29)と答えました。ところが、

イエス様は「自分のことを誰にも言わないように」と厳しく申し渡され、続けてご自分の受難を

弟子達に告知されました。すると、ペテロは、すかさずイエス様を脇へ引き寄せて「そんなことが

あってはいけません」と(いさ)め始めたのです。それは、ペテロが「キリスト」のことを単なる地上の

圧政から救い出して下さる、モーセのようなメシヤ(救世主)だと考えていたからです。ですから、

キリストが死なれたら、これまで従ってきたことが無意味になると直感で感じたようです。という

ことは、ペテロは本当の意味で「キリストが魂の救い主」であることを理解していなかったという

ことです。ですから、イエス様は、ペテロに「サタンよ。引き下がれ」と言われ、ペテロを叱責(しっせき)され

ました。実は、「キリスト」とはギリシャ語で「
救い主」という意味であり、「罪人を救うために

来られたお方」
であったのです。ところが、ペテロは「罪人を救う救い主」として、イエス様を自覚

しておらず、単なる王として「民を世の苦しみから救い出して下さるお方」であると思っていたの

です。ですから、イエス様が「長老たち、祭司長、律法学者たちに殺される」と言われた時、「それは

困ります。私たちを地上の苦しみから救って下さるお方が殺されてしまったら、私たちの願いはどう

なりますか」という自分勝手な正義感から、イエス様を(いさ)めたのです。そこで、ペテロはイエス様

から「サタンよ。引き下がれ。あなたは全能主の方に心を向けないで、人の方に心を向けている」

言われてしまったのです。


(転)このような、キリストに対する霊的な感受性が(にぶ)いのは、ペテロだけではなく、私たち

クリスチャンの中にもあるのです。その霊的な盲目さは、私たちの心の中に、「キリストの救いが、

世的な御利益をもたらすもの」と思う無知が原因です。実は、ペテロも全能主の方に心を向けることを

せず、世的な御利益を願っていたのです。
ですから、彼がイエス様を、罪を赦して下さる救い主として

見ることが出来ず、単なる地上の御利益を与えて下さる救世主としてしか、見ていなかったので、「サ

タンよ、引き下がれ」と言われてしまったのです。そこでもし、私たちが全能主の方に心を向けたなら、

どうでしょうか?「自分は丸ごと罪人です」とひれ伏すしかできません。ところが、私たちは自分を

罪人として見たくはないので、あえて全能主を意識せず、人と見比べて、自分を誤魔化します。すな

わち、いつも人間的な御利益に心を向けて、自分の肉の罪深さには、目を留めようとしないのです。

その霊的な盲目の故に、罪を指摘されると「これからはキチンと()ります」と、勝手な反省して、

終わらせるのです。これは、ただ「赦して下さい」と言って、罪を棚上げして行くことです。そこには、

罪の責任を軽く考えて行く、身勝手な救いに留まっている自己中心な救いの感覚しかありません。

全能主は、そんな罪人を救おうとされたのではありません。むしろ、「目を天に向けようともせず、

罪人の自分を哀れんで下さい」と叫ぶ者に、全能主の心が留まるのです。もちろん、それでも私たちの

心の中にある罪は、そのまま残ります。ですから、信じる前は罪人、信じる時も罪人、信じた後も罪人、

それが、クリスチャンの本質です。ですから、罪人は常に全能主の方に心を向けて、「全面的に自分が

間違っていました」と降参しなければなりません。何故でしょうか。罪は反省では済まされないから

です。それが、34節の
「自分を徹底的に否定して」という意味です。「自分を徹底的に否定する」

ということは、「何一つ残さず自分を否定する」ということです。私たちは生まれた時から、丸ごと

罪人ですから、受け入れてほしいと願えるような資格はありません。
だから、一つも残さず、「徹底的に

自分を否定する」のは当然のことです。そして、主は「自分の十字架を負って従ってきなさい」

言われましたが、この「自分の十字架を負う」というのは、「自分の死」を意味します。それは、私たちは

全能主の前に完全に罪人ですから、生きている資格さえありません。ですから、自分の罪を「赦して

ほしい。受け入れてほしい」という、そんな傲慢な願いを要求できる者ではないのです。私たちは

生まれながらに罪人(ロマ7:14)ですから、生まれながらに捨てられて当たり前です。ですから、

「自分の命を救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分の命を失うものは、それを救うの

です。」
言われたのです。このように、自分の命は捨てられて当然だと思う者に対しては、「お前自身が

そのことを分かったならば、イエスの救いをお前に与えるから、へりくだりの心を持ってわたしに

従って来なさい」
と全能主は言って下さるのです。

(結)私たちは、自分の心の中に罪に対して、全能主の前に隠すことの出来るものは、一つもないの

です。全能主は、私たちの心の中を全部知っておられますから、誤魔化すことは出来ません。ただひれ

伏して、地面に顔をつけるしかありません。それなしでは、全能主の前に「自分は罪人です」と告白

しても、何の意味もありません。先程も申し上げたように、反省というのは、自分を受け入れてほしい

からすることです。本当の意味で「自分が罪人だ」と言う時には、反省さえ表すことのできない者で、

全能主に顔を出すことも出来ない者なのです。自分が罪人であるということは、単なる感情や頭で理解

することではなく、罪しかない惨めな者である事実を認めることです。そして、惨めさを隠さずに、

裁かれることを覚悟の上で、自分を全能主の前にさらけ出すことです
。そして、
自分を徹底的に

否定し、自分の十字架を負って主に従って行く」姿を主は見られて、心を動かし、「悔いし砕かれた心を

軽んじない」と言って下さるのです。
真実な悔い改めはここにあります。どうか、全能主の方に心を

向け、この真理に歩んで下さい。

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