2022年7月31日
『新しく生まれ、御国に入れて頂く時まで、
地上では全能主の庇護のもとで、全力を尽くして仕えていく』
ヨハネの福音書 3:1~18
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(起)ヨハネの福音書3章3節の御言葉から、「人は新しく生まれ、全能主の御国に入れて頂く
時まで、地上では全能主の庇護のもとで、全力を尽くして主にお仕えして行くこと」を学んで
行きたいと思います。
(承)さて、イエス様は、ニコデモというユダヤ人の議員に対して、「人は、誰でも新しく生れ
なければ、全能主の国を見ることはできません」と言われました。そこで、人が新しく生まれる
ということはどういうことかを学んでいく前に、まず「人がこの世に生まれ出る」ということは、
どういうことかを考え、その上で新しく生まれるということが、可能かどうかを見て行きたいと思い
ます。「人がこの世に生まれ出た」ということについては、二つの考え方があります。一つは、「偶然に
生命が誕生し、進化して今日の人間が存在するようになった」という考え方です。生物学者たちが、
人間の命について調べて行くと、「人間は地の塵の元素から出来ている」というところに辿り
着きます。しかし、地の塵という命を持たない「元素」が、どのようにして生きる者になった
のかという過程については、説明されてはいません。なぜなら、人の中にある、精神とか心とか
霊と呼ばれるものの実体については、いくら研究しても掴み所がないからです。ですから、
結局は「命のスタートは偶然だ」と言うしかないのです。この考えは進化論の結末であり、今から
たった150年くらい前に考え出された仮説です。この進化論の学説に関して、誰も「無機物の元素
から、魂を持った生物が出来上がった」という証明をした科学者はおりません。ですから、進化論
はどこまでも仮説です。もう一つの考え方は、「知恵ある全知全能のお方が、人間を元素から
形創り、命の息を吹き込まれて、人は生きる者になった」という考え方です。この考えは、聖書が
記しているところです。聖書のこの主張も仮説であることには変わり在りませんが、進化論には
ない明確な状況証拠というものがあります。それについて聖書は「全能主の目に見えない本質、即ち絶対
主の永遠の力と性質とは、天地創造以来この方、被造物において知られ続け、明瞭に認められて
おり、真理を阻む人間に言い訳が出来ません(ロマ書の1章20節)。」と言っています。これは、
どういうことかと言いますと、人間の命の仕組みを見るときに、それは偶然に出来上がるような代物
では無く、そこには緻密に計算された科学的な仕組みで満ちているという状況証拠が有るという
ことです。すなわち、たった一つの細胞でさえ、偶然に出来る確率は10の67乗分の1であり、
統計的に、10の50乗分の1の確率はゼロというのが、数学者のほぼ一致しているところです。
ところが、人間の身体は、60兆個の細胞のパーツによって組み立てられているのです。ですから、
人間という生命体を見るとき、これは決して偶然の産物によって出来上がるものではないということ
です。これは、明らかに、偉大な製作者が存在しないと到底完成されるものではありません。もし仮に、
偶然によって一つの細胞が出来たとしても、そこに、人の魂が吹き込まれないと、単なる生き物であって、
人格は形成されません。これが、聖書の主張です。「人がどのようにして生きるものとなったのか」
ということについては、「全能主が地の塵で人を形造り、命のを吹き込んだ」と書いております
ので、昔の科学者は「人が生きているのは、全能主がいらっしゃるからだ」という理解を当然のように
持っていました。その偉大な製作者によって創られた宇宙であるからこそ、そこに秩序ある法則がある
と考えて科学しようとしていたのです。(例、ニュートンやアインシュタイン等の科学者)
そして、その立場に立って考えていたからこそ、「人は、全能主によって、命の息を吹き込まれた時
から始まった」と考えていたのです。即ち、偉大な全能主の存在については、人間のような驚くべき被造物
が存在する以上、そこには、偉大な知恵ある創造主がいたという弁解の余地がない真理があるのです。
この故に、人が生まれることが出来たということです。
(転)では、「人が新しく生まれる」とは、具体的にどういうことなのか、見て行きたいと思い
ます。先程も申し上げたように、聖書には、「全能主が地の塵で人を形造り、命の息を吹き
込んだことによって、人は生きるものになった」と書いてあります。これが、最初の人間アダムに
為されたことです。そのアダムの命を私たちは受け継いでいるのですが、残念ながら、その命は、
罪を犯したアダムの子孫として、受け継いだ罪の命です。ですから、そこに魔物も入り込んで来た
のです。この罪の命は一度死ななければなりません。しかし、先週も学んだように、私たちは死んで
終わりではなく、イエス様の救いを信じ受け取った者は、死んだ後に、もう一度命の息を吹き込ま
れて甦ると約束されています。即ち、アダムに与えた最初の命ではなく、御霊によって生まれ
出てくる新たな命を頂き、新しく生かされるということです。それが、「水と御霊によって生れる」
(5節)という意味です。そして、ガラテヤ6章15節を見ますと、「新しい創造こそが重要なの
です」とあります。「創造」ということは、現在あるものを造りかえるのではなく、全くゼロから創り
上げるということです。ですから、私たちは、現在持っている罪の体と罪の心は、全部放棄して、
新たなものを頂くことができるのです。それが、イエス様の再臨の時に頂く、新しい命であり、
「新しく生まれる」ということです。ただし、自分の魂は、そのままの自分であり続けるために、
引き継いで行くものです。こうして、人は一度死にますが、死んだ後に甦る約束を頂いている
ことが救いなのです。これが、新しく生まれて御国に入って行く命です。このことは、イエス様の
救いを受け取った者に対する約束です。イエス様の救いはアオリスト形ですから、現在の状況
如何によりません。だから、私たちがイエス様の救いを信じ受け取った時点で、永遠の御国に入れて
頂くことが許されるのです。それは、言葉を替えるなら、信じた者は地上に居る間、全能主の庇護の
もとに置かれているということです。だから、私たちは、先々のことについて何も心配する必要は
なく、「全力を尽くして主のために生きる」と心を定めて良いのではないでしょうか。進化論は、
偶然に出来た命ですから、死ぬことも偶然です。即ち、偶然にやってくる死を待つだけです。
そこに命の価値や尊厳があるでしょうか。しかし、新しく創られた命には、絶大な価値があり
ます。罪の身体から解放され、イエス様と同じ身体に変えられるのです。(ピリピ3:21)進化論
にはこんな望みはありません。ところが、私たちは、永遠に繋がる命をイエス様から頂きました。
だから、与えられたこの命を無駄にせずに、全力を尽くして主のために生きて行こうという心が
湧いてくるのです。私たちの生き方は、ここに焦点が合わされているのです。
(結)どうか、この真理に目覚めましょう。イエス様を信じて仰ぎ見る者は「新しく生まれ」、永遠の
命を得ます。それは、まだ今は味わっていませんが、イエス様の再臨の時に実現します。その時
まで、私たちは全能主の庇護のもとにあるのですから、全力を尽くして、喜んで主にお仕え
して行きましょう。
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